完璧な9

   家に帰ると幽霊がいた。

 どうして僕の部屋にいたのかは知らない。僕が、仕事を終えて帰った時、幽霊は当然のように部屋の隅に膝を抱えて座っていた。

「君は誰だ?どうしてここにいるんだ?」と僕が声を掛けると、彼はびっくりした顔でこう言った。

「君には僕が見えるのか?」

「見える」

 見える。確かに見える。しかし、どこか影は薄い。何だか向こうが透けて見えるような感じだった。

「たまにいるらしいんだよなあ、こういう人が」やれやれといった感じで幽霊は言った。そして、自分から幽霊だ、と言った。「生きているうちは名前もあったけど、今は必要ないよね、だけど、正真正銘の幽霊さ」

「それがどうして僕の部屋にいるんだ?」

「習慣なんだ。やっぱり誰かがそばにいると落ち着くんだよ。気に入った部屋で過ごし、飽きたらまた別の部屋へ行く」

「女の部屋の方がいいだろう?」

「初めはそうだったさ。でも、かえって駄目だ。ちっとも落ち着かない」

「でも、それはフェアじゃないな。君は相手が見える。相手は君が見えない。君は相手を逐一観察できるが、相手はそれに気づかない。どう見てもフェアじゃない」

「悪かった」幽霊はがっかりして言った。「出て行くよ」

「その必要はない」僕は言った。「幽霊と同居できるなんて、めったにない機会だ。それに、この場合は対等だよ。僕は君が見えるし、話も出来る。好きなだけいていいよ」

「ありがたい」幽霊はほっとしたように言った。「実は死んでからこっち、人と喋ったことがない。どうやら僕は霊感がないみたいで、幽霊仲間もいないんだ」

「ただ、同居するにはひとつ条件がある」

「何だ?」幽霊はちょっと身構えた。

「取り憑いたりしないでくれ」

「大丈夫さ」幽霊は笑って言った。「恨みがあって出てきた訳じゃない。僕はただ漂っているだけさ」

 幽霊は趣味の悪い茶色のセーターに、グレーのズボンという出で立ちだった。何でも、死んだ時に身に付けていたものだという。

「君も気をつけた方がいい」幽霊が不満そうに言った。「死んだら着替えが出来ない。いつ死んでもいいように、納得のいく服装をしていた方がいい」

 幽霊の話によると、彼は一九七〇年代の初頭に交通事故で死んだ。友達の運転するコロナに乗って江ノ島へ行く途中、トラックと正面衝突をした。友達は助かって、幽霊だけが死んだ。

「よくあることさ。運転している者はとっさにハンドルを切る。無意識に、自分が助かるようにね」

「痛かった?」

「いや、その時僕は寝ていたんだ。いわば、気がついたら死んでたってわけさ」

 そう言って幽霊は笑った。

 僕はウイスキーを出してきて、グラスに注いだ。

「じゃ、好きにさせてもらうよ」

「どうぞ、君の部屋だ」

「僕ばかり飲むのは悪いな」

「飲みたいのはやまやまだがね」幽霊は残念そうに言った。「飲めないんだよ」

「どうして?」

「僕たちは(つまり幽霊は)、実体としてではなく、想念として存在しているんだ。だから、物体に関して何者にも影響を受けることはないし、与えることも出来ない。例えば、僕は壁を通り抜けられるけど、ドアを開けることは出来ない。ウイスキーを飲むことも、グラスを持つことも出来ない。僕は幽霊であって、透明人間じゃない」

「音楽を聴きたいんだが」僕はレコードキャビネットの所へ行って言った。「何か好みはあるかい?」

「君の好きなのを聴いてくれ」

「どうせなら一緒に聴きたいじゃないか。」

「だったら言うけど」幽霊は恥ずかしそうに言った。「僕は加山雄三が好きなんだ」

「加山雄三は持っていないな。じゃあ、すまないけど、適当にかけるよ」

 僕はターンテーブルに、昔、CBSソニーから出た、サイモンとガーファンクルのベスト盤を載せて針を落とした。ウイスキーの酔いが体を包む。A面が終わった辺りで小腹が空いたので、冷蔵庫から卵を取り出し、ハムを刻んでオムレツを作った。

「お腹は空かないか?」僕が言うと幽霊は笑って言った。

「さっきも言ったろ?僕は物質に対して何も出来ない。食べることも必要はない」

「君たちの世界のシステムはどうなっているの?」

「システムって?」

「つまり」僕はオムレツを食べながら言った。「僕は死んだ経験がない。死ぬとどうなるか知らない。それを教えてくれないか?君の例でいいんだ。これは純粋な好奇心からの質問なんだけど」

「死んだ経験がないってのは間違っているな」幽霊が言った。「君は生まれる前は他の何かだったし、僕だってこれから別の何かに生まれ変わるんだ」

「どうして?僕は僕になる前のことを覚えていない」

「邪魔だからさ。」幽霊はきっぱりと言った。「出発は必ずゼロから始めなければならない。〝前世〟に引きずられるのはマイナスでしかないからね」

「現世は前世によって決められているって説もあるけど?」

「そういうことはないと思う。それは犯罪を犯した奴が、親のせいだとか社会のせいだとかと言うのと同じだな」

「話を元に戻すけど、死ぬとどうなる?」

「どうにもならない。肉体がなくなるだけだ。そして、ずっとそのままさ。僕は二十二で死んだけど、その時のままさ。君が見ているのは、僕が思い込んでいる最後の僕の姿だ。いわば、僕の想念が具象化されたものにすぎないんだ」

「随分難しい言葉を使うんだね」

「一生懸命勉強したよ」

 僕たちは低く笑い合った。

「生まれ変わるって話だけど」

「〝再生〟のこと?」幽霊は言い直した。「〝再生希望者名簿〟ってのがあってね、それに登録するんだ。登録は自由さ。生まれ変わりたくなければ申し込まなくていい。しばらく浮遊霊でいて、気が向いたら登録する奴もいるし、気が変わって取り消す奴もいる」

「それは誰の仕事なんだ?」

「もちろん、神様さ」幽霊は涼しい顔で答えた。

「神様に会って教えてもらったのか?」

「ひとりでに分かるのさ。神様の仕事ってそういうもんだろ?」

「それで君は、生まれ変わりたくなくてさまよっているの?」

「違うよ。順番待ちなんだ。再生希望者はけっこういるからね」

 僕たちは、それから、取るに足らない世間話を二つ三つした。話しながら、僕は、もしこの光景を誰か他の人が見たらどう思うだろうと考えた。だらしなく酔った男が独り言をいっているか、とうとういかれちまったか、恐らくそんなところだ。誰も幽霊と会話しているとなんか思ってくれないだろう。

 幸いなことにそんなことにはならなかった。僕はすっかり酔っていまい、もう寝るよ、と言って話を切り上げた。

 僕が食器を片付け、歯を磨いている間、幽霊はずっと部屋の隅にいた。変な夜だったな、と僕は思いながら寝床に入った。これからどうなるんだろう。いや、どうにもならない。僕は僕の好きにする。それでうまくいかなかったら、幽霊は出て行くだろう。誰も無理をする必要はない。

「おやすみ」と幽霊は言った。

「おやすみ」と僕も言った。灯りを消しても、幽霊の姿がぼんやりと見えた。変な夜だったということには間違いはなかった。

 

 翌朝、目を覚ますと、幽霊は昨夜と同じ姿勢で座っていた。夢じゃなかったんだな、と僕は思った。

 僕はいつものように顔を洗った。そして、パンを焼き、牛乳を温め、卵を焼いた。それから、NHKの朝のニュースを見ながら、朝食を摂った。いつもの朝だ。たったひとつ違っているのは、部屋の隅に幽霊がいることだけだった。

 仕事に行くよ、と幽霊に声を掛けると、彼は「いってらっしゃい」と言って手を振った。

 

僕は三年前からこの町の工業高校で教師をしている。どこにでもある田舎町だ。町の真ん中を鉄道が通り(赤字路線だ)、古ぼけた商店街がある。高校は市街地から一駅離れた、畑が広がる、だだっ広い所にあった。生徒は卒業するとほとんどが地元に就職した。バスケットボールとバレーボールが強く、野球は毎年一回戦で負けていた。

 僕のアパートからは、車で十分ほどの距離だ。車は一九八三年型のホンダシティ。この地域では車がないと生活できない。中古を安く買ったのだが、ガソリン一リットル当たり二〇㎞走ってくれるので随分助かっている。

 僕は始業三十分前には職員室に入る。別に勤勉だからではない。慌ただしいのが嫌なだけだ。三十分あれば、コーヒーが飲め、煙草が吸え、うまくいけば予習もできる。

 この日、僕は三つの授業をした。一年生には宮沢賢治の詩を、二年生には中島敦の小説を、三年生には平家物語を、それぞれ読んで聴かせた。その他に、打ち合わせを一つ済ませ、この間行った出張の復命書を書いた。空いた時間は、エドガー・アラン・ポーの推理小説を読んだ。職員室に入ってくる生徒の用事を聞き、必要な指示を出した。時折、同僚の雑談に加わった。

 いつもと変わらない一日だ。それらの、いつもしつけていることをしながら、僕は、僕の部屋にいるであろう、幽霊のことを考えた。昨夜来の、この奇妙な出来事を、どう定義づければいいのだろう。日常の中の非日常。不意に訪れた死の匂い。生活の中に潜む死。どれもしっくりこない。僕は幽霊に死を感じない。大体、幽霊には自分が死んでいるという自覚が乏しいのではないか。僕は友人や同僚や生徒と話すように幽霊と話した。そこに何の恐怖も違和感もなかった。ただ言えることは、このことは誰も知らないし、僕以外の誰も幽霊と話すことはできない。だから、幽霊との同居のことなど、誰に話しても意味のないことなのだ。そう、それだけは言える。

 僕は仕事の帰り、加山雄三のレコードを買った。

 

 夜、彼女から電話が来た。

 彼女と僕は、東京の大学で知り合った。卒業後、僕は田舎に帰ってこの仕事に就き、彼女は郊外の大きなブックセンターに就職した。僕は月に一度東京へ彼女に会いに行く。昼間デートして、彼女の部屋に行き食事をし、セックスをする。それが三年間続いている。

 僕が彼女と話をしている間、幽霊は横になって加山雄三のレコードを聴いていた。それはとても気持ちよさそうで、僕も何だか嬉しくなった。

 彼女は電話の向こうで、「何をかけてるの?」と訊いた。僕が「加山雄三だよ」と答えると、あきれてこう言った。

「あなたの趣味に、まるで一貫性がないのは知っていたけど、加山雄三を聴き出すとは思わなかったわ。まさか祭小春とか尾形大作なんて聴いてないでしょうね」

「聴いてないよ」僕は答えた。「それにしても、どうして君の口から祭小春とか尾形大作なんて名前が出てくるんだ?」

「支店長が好きなのよ」彼女が答えた。「カラオケスナックで『無錫旅情』なんて歌うのよ。全くやんなっちゃうわ」

 それから、僕たちは、いつものようにくだらないお喋りを一時間も続け、最後に、冬にはスキーに行こうね、と言って電話を切った。幽霊は、僕に小指を立てて見せて笑った。僕も同じように笑った。それだけだった。幽霊は彼女について、何一つ質問をしなかった。

「やっぱり、加山雄三はいいなあ」と幽霊は言った。「悪いね。気を遣わせちゃったね。普段はこんな曲、聴かないんだろ?」

「そんなことはないよ。」僕は答えた。「けっこういいじゃないか。『光進丸』とか『旅人よ』なんかすごくいい」

「君と知り合えてよかったよ」と幽霊は言った。

「僕もさ」と僕は言った。

 

 日曜日。僕は卵を十個茹でた。それを一日の食料にするつもりだった。

 これらの卵も幽霊になるのかな、と僕が言うと幽霊は笑って答えた。

「もしそうだったら、人間の女なんて生理の度に水子を作っていなきゃならないぜ」

 この日僕は谷崎潤一郎の『細雪』の続きを読んだ。戦争中に書かれた、戦争とはまるで関係ない長編小説。天下国家は語らない。芝居がどうとか、どこの料理がどうとか、上方の優雅といえば優雅な、どうでもいいといえばどうでもいい話が続く。意地でもご立派なことは書きたくなかったんだろう。この時代の谷崎としての見識を思う。

 疲れるとレコードを聴いた。ボブ・ディランの『フリーホイーリン』『時代は変わる』、まだディランがアコースティックギターを弾いていた頃のものだ。

 僕はこの日、朝昼三個ずつの卵を食べた。

「卵が好きだね」と幽霊が言った。

どうして、と僕が訊くと幽霊は答えた。

「初めて会った時も、その翌朝も卵を焼いていた」

「卵が好きなんて残酷かな」

「そんなことはないな」幽霊は即座に答えた。「年寄の牛より仔牛の方が旨い。それを誰が残酷だって言えるかい?」

 『細雪』の三姉妹の次女の結婚が決まり、彼女が下痢に悩まされながら上京する場面を読む頃には夜になっていた。

 遠くで列車が行き過ぎる音が聞こえる。僕は列車の中で下痢に苦しむ、透き通るような美女を想像した。

 それから、駅前の商店街にある弁当屋で、酢豚と鳥の唐揚げを買って来て、ビールを飲んだ。

「休みの日はいつもこうなの?」と幽霊が訊いた。

「そうだね」唐揚げを齧りながら僕は答えた。「先週はずっと村上龍を読んでいたな。その前は一日中車でほっつき歩いていたよ」

「一人でいるのが好きなのか?」

「どうやって答えたらいいかな、」僕は少し言葉を区切って言った。「僕は僕のやりたいようにやっている。たまたま休みの日に、僕の周りに人がいなかっただけの話だ。別に一人でいるのが好きなわけでも嫌いなわけでもない」

「僕は今までずっと一人だったけど」幽霊が言った。「初めの頃は堪らなかったな。信じられるかい、誰も僕というものを認めてくれないんだ。誰が話しかけてくれるわけでもない。ぶつかりそうになっても誰もよけてくれない。悲しいことに、僕の体はぶつかることもできずに、すり抜けてしまうんだ」

「今も寂しいままかい?」

 僕が言うと幽霊は肩をすくめて答えた。

「始終寂しがっていたら、十何年もこうしてやってられないよ。いや、やってられなくても、僕はこのままやっていくしかない。漂っているだけさ。僕にとってのこの十何年はまるで一日のようだったし、一日一日はまるで十何年間のように思えた。何も生み出すこともない、空虚な十何年さ。もしかしたら神様は、こうやって生きていた方がましだってことを、僕たちに教えているのかもしれないな」

 僕はベッドに入ると、目を閉じて幽霊の寒々しい十何年を思った。僕には幽霊の孤独がどんなものかは分からない。ただ確かなことは、いずれ僕もその孤独を味わわなければならないということだ。

 

月曜日の昼休み、僕は山本さんと立哨指導に出た。山本さんは三十四歳の理科の先生で、僕と職員室の席が隣同士だった。

僕と山本さんが、事務室から出前の五目ソバを持って出たところで、生徒指導部長がこう言った。

「悪いけど、今から校門で立哨してくれないか? 生徒が昼休み、校外へ出て見苦しいと近所から苦情が来てるんだ。三十分でいいから」

 僕たちは目の前の五目ソバより生徒のことを優先させなければならない。僕たちは五目ソバを職員室の机の上に置き、校門へ向かった。そして、校門の前の芝生に座り、近寄って来る生徒を追い返した。

 いい天気だった。晩秋の空はぽかんと晴れ渡り、空気はひんやりとして爽やかだった。カキアカネがそのまま素手でも捕まえられるような緩慢な動きで飛び回っていた。

 こうしているのも悪くないな、と僕は思った。もちろん腹さえ減っていなければだけど。

「いい天気ですね」と僕は山本さんに声を掛けた。「全く、こうして仕事に来ているのが勿体ないくらいです」

「そうですね」と山本さんは答えた。山本さんは十歳近く年下の僕にさえ丁寧語を使う。「日曜日までもちますかね」

「何かあるんですか?」

「家族を遊園地に連れて行くんですよ」

「いいですね」

「いやあ、疲れるだけです。せっかくの休みなのに、たまにはゆっくり休みたいですよ。先生なんか自由で羨ましい。一人の方が気楽でいいですよ」

 山本さんはいつも無口でとっつきにくいような印象がある。こうして打ち解けて話すのは初めてだった。

 僕は、ずっと誰かに訊こうと思っていたことを、山本さんに訊いた。

「山本さん、幽霊なんか信じますか?」

「幽霊ねえ」山本さんはのんびりとした声で答えた。「とにかく、中世の浄土信仰を見るまでもなく、来世を思わなければならないっていうのは、その人がよっぽど不幸な状況にあるんじゃないでしょうかねえ」

「そうかもしれませんね」僕は同意した。

 生徒たちは諦めたのか、もう近づいて来なかった。あと五分もすれば午後の授業を告げる、退屈なチャイムが鳴りだすだろう。僕は気が狂いそうなほど腹が減っていた。

「もうそろそろいいでしょう」と僕は山本さんに言った。

「そうですね、いいでしょう」と山本さんは答えた。

 そして、僕たちは連れ立って職員室に帰った。生徒指導部長は書類に目を通しながら、顔も上げずに、ご苦労様でした、と言った。

 僕たちは苦笑いを交わしながら席に戻った。僕がのびきった五目ソバをすすり始めると、山本さんは午後の授業のために教科書を抱え職員室を出て行った。

 

 月に一度、僕は東京に彼女に会いに行く。今回は祝日の関係で連休になっていたので、朝早くに出て一晩泊まって来ることにした。電車を乗り継いで彼女のアパートまで、半日がかりの小さな旅だ。

 彼女のアパートは東京の外れを流れる大きな川の近くにある。アパートの前には土手があり、その向こうに僕たちが出た大学の建物が見えた。

 アパートでは彼女が昼食を用意して待っていてくれた。チキンライスと野菜スープ。チキンライスはマッシュルームを入れてバターを利かせた、なかなか本格的なものだった。

「オムライスにしないとこがシブいでしょ?」と彼女はちょっと誇らしげに言う。

 食後のコーヒーを飲みながら、僕は彼女の仕事の愚痴を聞く。一ヶ月分の不満を、丁寧に聞く。アドバイスはしない。僕は本屋の仕事は何も知らないし、彼女もそんなものは求めていない。

「支店長が最悪なのよ」と彼女は言った。「三十五歳、バツイチ。演歌好き、日本酒好き。着るもののセンスが悪いっていったらないわ。飲み会では語る語る。全く、やんなっちゃう」

一ヶ月分の不満を吐き出すと、彼女はすっきりした様子で、表に出よう、と言う。

 アパートの前の土手に上り、河川敷のグランドでやっている草野球を眺める。淡い日差しに彼女の髪が金色に光る。僕は彼女の横顔を美しいと思う。

 川には何艘かのボートが繋いである。貸しボート屋があるのだ。シーズンオフのせいか、客はいないようだ。

「乗ってみないか?」と僕が言うと、彼女は「寒いわよ」と答えた。

「いいじゃないか。近くまで行ってみようよ」

 僕たちは土手を下りる。河川敷の掘っ立て小屋が貸しボートの受付になっている。店先に中年の男が一人、椅子に座っていた。

「やってますか?」と僕が訊くと、男は「寒いよ」と、彼女と同じようなことを言った。

「いちばん短い時間でいいです」と言って、僕は料金を払った。

 男は面倒臭そうにボートのロープをほどく。

「杭で区切ってある所までね。余り遠くへ行くと流されちゃうよ」

「分かりました。気を付けます」

彼女は文句を言うこともなくボートに乗った。僕がオールをひと漕ぎすると、ボートはあっけなく岸を離れた。

「水の上っていいもんだろ?」と僕が言うと彼女は少し笑って言った。

「そうね。ちょっとだけだけど日常を離れたような気がするわ」

 空気はひんやりしていたが、風がないのでそれほど寒さは感じなかった。杭で囲ってあるエリアは、ちょうど淵のようになっている所で水の流れはほとんどない。僕は淵の真ん中辺りで漕ぐのをやめた。

「水が冷たくて気持ちいいね」彼女が川面に手を浸しながら言う。

 白地に青い線の入った電車が鉄橋を渡っていく。時間が止まったようだ。

「ねえ」と僕は彼女に声を掛けた。「幽霊って信じる?」

 彼女はちょっと怪訝な顔をしたが、きっぱりと言った。

「信じないわ。人間は死んだらそれでお終い。だから、いいのよ」

 全くだ。その通り。僕はそんな彼女のもの言いが好きなのだ。

 晩飯は学生時代に通った焼鳥屋に行った。

 カウンターに彼女と二人並んで座ると、髭面のマスターが言った。

「久し振りだな。今何やってんだ?」

「田舎に帰って教員やってます」

「へえ。無事にやってるの?」

「まあ何とかやってます」

「そうか。今日は何にする?」

「そうですね、まずはビール。それから、タレと塩二本ずつ焼いてください」

 ここの焼鳥は大振りなので、少しずつ頼んだ方がいい。タレには七味、塩にはわさびがよく合う。きりっと冷えたビールが喉に心地いい。

 彼女は一人では飲みに出掛けないので、彼女がここに来るのは、今は僕が泊まりに来る時だけだ。学生の頃から二人で来ることが多かったので、僕たちが付き合っていることは分かっているのだろうけど、マスターもおかみさんも適当に放っておいてくれる。

 ビールをジョッキで二杯飲んで、日本酒に切り替える。冷奴に鳥わさをつまむ。

 二時間ほど飲んで、彼女のアパートに帰る。

 部屋に入ると、すぐに僕は彼女を抱きしめる。キスをしながら、彼女の服を脱がす。彼女は軽く抵抗する。

「ごめん、シャワー浴びてくる」と言って、浴室に入る。

 僕は部屋を暗くして、ベッドで彼女を待つ。水音が止み、やがて彼女がベッドに入ってくる。バスタオルを体に巻いただけで、下は裸だ。僕はいつものように彼女の体を愛撫する。しかし、彼女はいつものようには潤ってこない。

「ごめん。こういうこともあるのよ」と彼女は言う。

 僕の記憶ではこういうことはなかった。

「今日は無理みたい」彼女はそう言って僕を口に含んだ。そして僕が射精するまで根気強く僕を吸い続けた。

「ごめんね」

「いいよ」僕は答えた。「こういうこともあるよ」

 そうして、僕たちはそのまま眠った。僕はなかなか寝付けなかったが、それでも、いつの間にか眠ってしまった。彼女の「ごめんね」という声が、いつまでも遠くの方で聞こえている気がした。

 

 冬休みが来ると、僕は彼女と蔵王に行った。いつものホテルに宿を取り、夜になるといつもの居酒屋に通った。牛タンも馬刺しも、日本酒も旨かった。温泉にも体がふやけるくらい入った。雪もたっぷりあったし、申し分ないスキー旅行だった。

 最悪の瞬間は、最終日の昼食の時に訪れた。僕はカレーライスを食べながら缶ビールを飲み、彼女はスパゲティーミートソースをフォークに巻きつけていた。

 彼女はいきなりこう言った。「私、結婚するわ」

「何だって?」と僕は訊き返す。

「結婚するって言ったのよ」

「誰と?」

「誰だっていいでしょ、とは言えないわね。あなたとはずいぶん長く付き合ったもの」と言って、彼女は水を一口飲んだ。「前に話したことがあるでしょ? 支店長よ」

「どうして?」

「どうして? 好きだからに決まってるじゃない」

「君の話しぶりではそんなふうに思えなかったけど」

「それはあなたが馬鹿だからよ」

 僕は黙り込んだ。ビールを口に含んだが、何の味もしなかった。しばらくして僕は訊いた。

「僕が悪かったのかな」

「あなたは悪くないわ。ただ何もしなかっただけ。あなたは優しいし、いっしょにいると楽しい。でもそれだけ。あなたは私と三年の間付き合ったけど、結婚しようとは一言も言わなかったわ」

「君は田舎に来るのは嫌だと思ったから」

「あなたは馬鹿ね。私はそんなこと言ったことない」

 彼女はフォークを置いて僕の目を見て言った。

「彼はね、いつも私のそばにいて、私を好きだと言ってくれる。私が必要だと言ってくれる。結婚しようと、きちんと言葉にして言ってくれるのよ。あなたは、三年の間、何もしなかった。月に一度私の部屋に来て、食事をして私を抱いて、それだけ。三年間それなりに楽しかったけど、私はもういいの、こんなことを何年繰り返したって同じことよ」

 僕は完全に打ちのめされた。そして、やっとのことでこう言った。

「おめでとう、と言った方がいいのかな」

「ありがとう」と彼女は言った。「あなたにも幸せになって欲しいと思っている」

「ありがとう」

 こうして、すべては終わった。

 

 アパートに帰って来て、丸一日僕は飲んだくれた。眠くなると寝て、目が覚めればまた酒を飲んだ。

「やめなよ」幽霊は言った。「君が飲んだくれるほどの女じゃないよ。君と付き合いながら、支店長とよろしくやっていたんだろう?」

「そういうことになるね」

「じゃあ、もういいじゃないか」

「あのさ、Mっていう歌手がいるだろ?」

「え?」

「彼女がしばらく仕事を休んだ時、子どもを堕していたという噂があった。知ってる?」

「知らないな」

「同僚がそう言ってた。あいつらやり放題なんだって。でも、いくらMが色んな男と寝ていたって、僕は彼女のファンだし彼女が好きなんだ」

「君を捨てた彼女も同じだと?」

「そうさ、僕は彼女が好きだし、だから彼女が選んだことを受け入れるよ」

「分からないな」と幽霊は言った。「それだけ君の中で整理されているのに、何で君は飲んだくれているんだ?」

 僕は答えた。「それは僕にも分からない」

 

 冬休みが終わって学校が始まった。それから一ヶ月の間に、三人の生徒が交通事故で死んだ。一人目は停車中の車にバイクで突っ込んだ。二人目は自転車で登校中、左折をして来たトラックに巻き込まれた。三人目は、休みの日に峠道を自動二輪で走っていて、スピードの出し過ぎてカーブを曲がりきれず、ガードレールに激突した。

 職員会議の席上で、生徒指導部長が発言した。

「まさに異常事態と言っていい。これだけ事故が続くのも、生徒の生活が乱れているからです。明日から毎朝登校する生徒に対し、職員全員で服装指導をしようと思います」

「事故が続いていることと服装指導をすることに、何の関係があるのでしょうか?」

 若手の小川という男が質問した。

 生徒指導部長はこう答えた。

「一昨日の葬式の時(三人目の犠牲者のだ)、PTA会長が、参列していたクラスの生徒を見て『この頃、気が緩んでいるんじゃないか。服装も乱れている』とおっしゃいました。一般の方の目から見てそうだということです。そして、生徒に対し、我々職員一同がこの状態を何とかしたいと一体になって取り組んでいることを示す必要があるのではないでしょうか」

 こうなると、もはや誰も何も言えない。

 校長が決裁し、翌朝から職員総出の服装指導が始まった。

 

 始業三十分前には皆、玄関前に立つ。ボタンを外している者は、その場で直させる。丈の短い学生服を着ている者は、その場でそれを預かり、ジャージを着せる。太いズボンを履いている者は、別室へ連れて行きジャージに履き替えさせる。もちろん、すんなり事は運ばない。逆らう者は三人がかりで取り囲み、言うことを聞かせる。

「うるせえな!触んじゃねえ!」

 生徒の怒鳴り声がする。山本さんが胸ぐらをつかまれている。慌てて僕は間に入る。体育科の中年の男が、その生徒の襟首を掴んで山本さんから引き剥がし、そのまま別室へ連れて行った。連れて行く時、彼は山本さんに、「なめられてんじゃねえのか?」と言った。

「大丈夫ですか?」と僕は山本さんに訊いた。

「大丈夫です」山本さんは少し青ざめた顔で答えた。「すみません。迷惑をかけました」

 

 一週間後、生徒指導部長は言った。

「学生服の下に、派手なセーターを着ている者が目立ちます。セーターは黒か紺に決めましょう」

「学生服の下に着る、外からは見えないものを規制することに意味はあるんですか?」

 小川がまた質問した。

 生徒指導部長は噛んで含めるようにこう答えた。

「セーターは袖や裾からはみ出して見えます。防寒という観点からセーターを禁止することはしませんが、黒か紺なら目立たずに済む。統一した指導をするためにも、色は決めましょう。でなければ判断に迷って、かえってやりにくくなりますよ」

 校長が決裁し、セーターの規制が始まった。

 

 教員と生徒の関係は徐々に険悪になっていった。皆それに気づいてはいたが、やり続けなければならなかった。決まりを守らせることは僕たちの仕事だったし、それを嫌だと言うことは、許されないことだった。

 

「浮かない顔してるじゃないか」と幽霊が言った。

 僕は学校で起きていることをかいつまんで話した。

 幽霊は驚いた顔で言った。

「すごいことやってるな。僕が通った高校は服装に関して自由だったな」

「君の学校は、もしかしたら進学校じゃなかったか?」

「そうだよ。僕は劣等生だったけどね」

「進学校は自由でもやっていけるさ。うちは工業高校だ。就職の際は見た目を整えなきゃいけない。それに言うことを聞く奴ばかりじゃない。ある程度型に嵌めなきゃ秩序は保てないんだ」

「僕たちもそういい子ではなかったけど」

「でも、頭のいい子は引く時には引けるだろう。そうした方が自由を享受できることが分かってるんだ。言い方は悪いが、頭の出来が悪い奴にはそれが分からない」

「テレビで見る先生の仕事とは違うんだね」

「ああ違う。いくら授業を頑張っても、生徒の多くは理解しない。話を聞こうとさえしない。やっていることはセーターの色を決め、制服のボタンをさせ、ズボンをきちんと履かせる。髪の毛をいじらせない。そしてルールを厳格に守る。生徒に逆らわせない。それが優秀な教員なんだ。少なくとも僕の職場ではそうだよ」

「大変だね」

「ああ大変だ」

 僕はそう言って、ウィスキーを口に含んだ。

 

 ある朝、山本さんが年休を取った。授業の交換をしていない、その日になっての年休だった。

 時間割係の三十代の男が、「困るんだよな、全く」とぶつくさ言いながら、山本さんの授業の補填をしていた。

「山本さんとは同じクラスを持っているので、私がやりますよ」と僕は時間割係に声を掛けた。

 翌朝、出勤してきた山本さんが、「昨日はすみませんでした」と言ってきた。

「大丈夫ですか?」と僕が訊くと、

「ちょっとこの頃眠れないんです」と山本さんは答えた。

「無理しない方がいいですよ」と僕は言った。本当に当たり障りのない言葉でしかなかった。

 

 職員会議の席で、小川が言った。

「最近、生徒の間で不満が溜まっています。厳しくなった服装指導が原因だと思われます。昨日も朝の登校指導で、『死亡事故と服装と何の関係があるんだ』と言って文句を言ってきた生徒がいました。比較的真面目な生徒だけに、私としてはショックでした。あまり生徒を締め付けるのは逆効果だと思います」

 生徒指導部長がすっくと立って発言する。

「先生、また蒸し返すんですか。このことは指導を始める時に話し合ったじゃありませんか。共通認識が得られ、一度決まったことは、個人的には賛同できない部分があっても一致団結してやらなければならないのではありませんか?それが仕事というものでしょう。いいですか?私たちは教師です。ルールを守らせるために指導するのは当たり前です。ルールを守らなくていい、と生徒に言うことができますか?」

 彼は全体を見回して言った。

「私たちは教師です。生徒の成長のために、時には生徒が好まないこともやらなければなりません。皆で頑張りましょう」

 もはや誰も何も言わなかった。

 会議が終わった。会議室を出る時に、僕は山本さんに小声で言った。

「指導部長の言ったことをどう思いますか?」

 山本さんは言う。

「彼は正しい。嫌になるくらい正しいですね」

 

 二月になると三年生は自由登校になって、学校には出て来ない。生徒指導部長は三年の学年スタッフに、自由登校中、絶対に車の運転をさせないよう指示をした。(就職の関係もあり、生徒の大半は卒業前に自動車普通免許を取得する。)二年の学年スタッフには、三年が出て来なくなって生徒がいい気にならないよう引き締めのための集会を開かせた。周到で見事な手腕だ。

 三月に入ってすぐの卒業式はぴりぴりとした緊張感の中で行われた。不満を持った一部の生徒が何かするのではないかという噂があったからだ。ここでもやはり生徒指導部長が陣頭指揮を執った。各学年に集会を開かせ、卒業式にふさわしくない行動をとった者は、卒業生は卒業延期、在校生は停学にすると宣言した。そのおかげもあって、卒業式は何事もなく終わった。生徒もさすがに「本気でやるに違いない」と思ったのだろう。確かに生徒は大人になった、と僕は思った。

 

 卒業式が終わると、すぐ高校入試がある。幸いうちの学校はわずかだが定員を超える出願があり、二次試験はやらずに済む予定だった。

 試験の翌日は採点がある。会議室に全教員が集まり、教科ごとに机を寄せ合って採点が始まる。僕が所属する国語科は採点に時間がかかるのに定評がある。いつも終わるのは最後になるので、僕は長期戦を覚悟して採点に取り掛かった。

 隣のグループは山本さんがいる理科だ。山本さんは幾分硬い表情で答案の冊子に向かっている。何枚か採点をしていたが、突然手を止め部屋を出た。

 僕はトイレへでも行ったのかと思ったが、気になったので山本さんの後から部屋を出る。山本さんはトイレには行かず、玄関へ向かった。

「どうしたんですか?」と僕は声を掛けた。

 山本さんは立ち止まり、振り返って言った。

「採点ができません」

「どうして?」

「自分でも分かりません」

 山本さんの声は少しだけ震えていた。

「疲れが出たんですよ。ちょっと保健室へ行きましょう」

 僕は山本さんを促し、保健室へ連れて行く。養護教諭に事情を話し、ベッドに寝てもらう。心配だったが、いつまでもそうしてはいられない。採点に戻らなければならない。

「大丈夫よ、私が見てるから」

 僕が保健室を出る時、山本さんと同い年だという養護教諭は明るい声でそう言った。

 三十分ほどして教頭が部屋を出て行った。間もなく戻って来ると、理科の机の所にやって来て、「山本さんの体調が悪いので、私が手伝います」と言って採点を始めた。

 採点の間、山本さんが戻って来ることはなかった。

 

 それから合格発表まで山本さんは職場に現れなかった。

 そして合格発表の次の日、山本さんは職場に来た。いや、正確に言えば職場に来た証拠を残した。その日の早朝、校舎の屋上から飛び降りた山本さんの遺体を、用務員が発見したのだ。

 僕が出勤した時は、もう既に山本さんは運び去られていた。生徒は朝のショートホームルームで家に帰し、すぐさま職員会議を開いて今後の対応を話し合った。生徒指導部長の意見は的確だった。管理職は事実上の指揮を生徒指導部長に取らせた。

 生徒指導部長は会議の終わりに言った。

「本当に残念なことが起きてしまいました。悩みがあったら、皆さん、お互いに相談し合いましょう。何でも話せる職場にしていきましょう」

 僕は何も言わなかった。もう誰も何も言うことはなかった。

 

 それから長い間、雨が降った。激しくはないが、いつ止むとも知れぬしつこい雨だ。雨は辛抱強く山本さんの血痕を洗い流した。きっと世界の果てで、百人の小人が、一発で地球を破壊できるような爆弾でも作っているのだろう。

 

「再生できることになった」と幽霊は言った。「どうやら欠員が出たらしい。間もなく僕は生まれ変わることになるだろう」

「おめでとう、と言った方がいいのかな?」

「うん、ぜひとも祝ってほしい」

それから幽霊は三十秒ほど沈黙し、こう言った。

「ひとつ頼みごとをしていいかな?」

 僕はためらいもなく答えた。

「いいよ。僕たちは友達じゃないか。僕にできることだったら、何でもするよ」

「実は」と幽霊は言った。「〝完璧な9〟を書いてほしい」

 幽霊によると、「完璧な9」とは、直径9メートルの円と9メートルの直線で構成された「9」である。それを北極星からそう見えるように書いてほしいというのだ。

「要はおまじないなんだ。〝9〟というのは、一桁での最大の数だよね。つまり、現実という制約の中で最大限の幸福を、というやつさ」

「いつまでにやればいい?」

「一週間以内に頼む」

 こうして僕は重要な任務を負うことになった。

 

 日曜日の午後、僕は校舎の前の石段に座り、グラウンドを眺めていた。

 今夜、幽霊との約束を果たすつもりだった。「完璧な9」を書く場所は、学校のグラウンド以外に思いつかなかった。ここなら、ラインカーや石灰がある場所も分かっている。

 春はすぐそこまで来ているはずなのだが、空は曇り、冷たい風が吹いている。天気予報では夜から未明にかけて天気は回復し、雨は降らないという。

 「せんせー」と背後から僕に声を掛けた者がいた。谷小百合だった。この、稀代のSM女優の姓と稀代の清純派女優の名を併せ持つ少女は、僕が担任する隣のクラスの生徒だった。

「せんせー、何してるの?」

「お前は何してるんだ?」

「部活の帰りだよ」谷小百合は当然のように答えた。そしてまた言った。「せんせーは何してるの?」

 私はふと彼女にだけ幽霊のことを話してみる気になった。

「お前、口は堅いか?」

「堅いよ」

「本当か?」

「本当だよ。せんせー、『口は堅いか?』って訊く時点で、何か喋る気になってんじゃん。言っちゃいなよ」

「お前、頭いいな」

 僕は幽霊のことと、彼との約束のことをかいつまんで話した。

「じゃ、今夜やるの?」

「ああ」

「面白そうだな。私も来ていい?」

「駄目だよ。そんな遅くに来ていいとはいえない」

「平気だよ。私んちすぐそこだし。それに巻き尺使うんでも押さえる人がいた方が便利でしょ?」

「そうは言っても・・・」

「手伝わせなきゃ、誰かにさっきの話、喋っちゃおうかな」

「脅迫する気か?」

「そんな気は全然ないよ。でも、共犯にさせたら、私だって誰にも喋れないじゃん。お勧めだよ」

 とうとう僕は谷小百合とともに幽霊との約束を果たすことになった。時間を打ち合わせ、お互い一旦帰って出直すことにした。

 

 それから、部屋に帰って夕食を食べ、仮眠をした。そして、谷小百合との約束の時間に間に合うように部屋を出た。

部屋を出る時、幽霊に「行って来るよ」と声を掛けた。

幽霊は「ありがとう。よろしく」と答えた。

 

僕がグラウンドに立った時、ハンドボールコートの向こうから谷小百合が走って来た。

「せんせー、待った?」

「今来たところだ」

「すぐやる?」

「うん、時間が勝負だ」

 僕は巻き尺の端を彼女に持たせ、グラウンドの真ん中に、金棒で一気に半径9メートルの円を書いた。そして北の空から「9」に見えるように、9メートルの直線を引いた。その下書きに沿って、ラインカーで白線を引いていく。最後にそれが「9」だと分かるように、右下に点を打った。

 あっけなく「完璧な9」は出来上がった。僕たちは急いでラインカーと巻き尺を倉庫にしまった。

 僕たちはグラウンドの端の目立たない所に座り、「完璧な9」を眺めた。天気予報通り、夜から空は晴れて明るい月が出ていた。月明かりに照らされて「完璧な9」は僕たちの目の前にあった。

 僕はショルダーバッグに入れておいた二本の缶ビールを取り出した。幽霊との祝杯をあげるつもりだった。二本とも開けて、一本は前に置き、もう一本を口に含んだ。

 すると谷小百合が置いた方のビールを手に取ってごくごくと飲み始めた。

「お前なあ・・・」

「いいじゃん。労働の後のビールはおいしいよ」

「お前飲めるのか?」

「お父さんの晩酌の時、コップ一杯もらってる。幽霊さんの代わりに飲んであげるよ」

 やはり緊張していたのだろう。ビールを飲むにしたがって、体のこわばりがほどけていくような感じがした。

「せんせー、『谷間の百合』って小説知ってる?」

「バルザックか」

「私の名前、そこから付けたんだって。お父さんが言ってた」

「そうなんだ」

「せんせー、読んだことある?」

「ないよ」

「国語の先生なのにね」

「あれはフランスの小説だ」

「そっかー」

 僕は北極星を探した。たぶんあそこから神様は見ているのだろう。女子高生と二人、グラウンドの端でビールを飲んでいる光景は、神様からどんなふうに見えるのだろう。

「明日はちょっとした騒ぎになるね」

「そうかもな」

「大丈夫。私は何があっても口は割らないよ」

 谷小百合は僕の目を見ながら、真剣な顔をして言った。

 

 部屋に帰ると幽霊はもういなかった。

 

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