ガール
Ⅰ
とびきり素敵な女の子の話をしようか。
きっと君のクラスにもいただろう。負けず嫌いで、頑張りやで、クラス委員の選挙の時には、必ず一票入れてしまいたくなるような女の子だ。
彼女と出会った頃、僕は大学に籍を置いていたものの、ほとんど学校にも行かず、工業都市の路地裏の、古臭い四畳半のアパートで、未来の印税生活者を夢見ていた。
友人達は、もう卒業して各々の職に就いていた。僕だけが、誰も訪れる者のいないアパートで、夜毎飲んだくれていた。両親や世間に対する負い目もなくはなかったが、僕はその頃、日本の伝統的私小説にいかれていたので、むしろそんなものは僕の生活を荒れる方向へと駆り立てるだけだった。
僕は誰も信じなかったし、いつ死んでもいいと思っていた。今考えると馬鹿みたいな話だが、そう思わないと一人前の芸術家にはなれないと思っていたのだ。(だからといって、僕はあの頃が不幸だったとは言わない。あの頃、僕はまだ小心な教務主任の下で働いていなかったし、僕の住んでいた工業都市は、プロ野球のチームのフランチャイズだったのだから)
さて、その女の子のことだ。
ここでは、Kという名前を与えておこう。どのみち名前は記号に過ぎない。ならばシンプルな方がいい。
さて、Kのことだ。
彼女のことを一言で言うなら(もちろん無理を承知の話だが)、「晩秋のチチカカ湖」だ。
それだけか、と言われると僕も困る。もちろん、僕にとってKは美しかったし、魅力的だった。当たり前だ。僕は彼女を愛したのだ。しかし、彼女の魅力をいちいち並べ立てるより、「晩秋のチチカカ湖」を想像して欲しい。Kの美しさは、まさにああなのだ。
とにかく、Kは僕の前に現れた。そして僕は一遍で彼女にいかれてしまったのだ。
Kが僕のアパートに、初めて来た時のことを話そう。
彼女は、たっぷり時間をかけて部屋の掃除をした。前にも書いた通り、当時僕は日本の伝統的私小説家に憧れていたので、部屋は荒れ放題だった。
Kの手際は鮮やかだったし、指示は的確だった。僕はみるみる変貌する自分の部屋を信じられない気持ちで見つめるだけだった。
部屋の掃除が終わると、Kは僕を買い物に連れ出した。僕は歩いて10分の所にある商店街に案内した。彼女はそこの雑貨屋で、レギュラーコーヒーを淹れるために必要な物を一通り買った。
インスタントコーヒーならあるよ、と言うと、Kはきっぱりとこう言った。
「あなたが本とアルコールがなきゃ生きられないように、私にはちゃんとしたコーヒーがないと生きられないの」
「僕にとっての本や酒は、自分を手なずけるための道具でしかないさ」
「でも、あなた、それがないと生きていけないでしょ?」
返す言葉はなかった。確かに本と酒のない人生は考えられない。僕は自分を手なずける道具でしかないものに、支配されつつあったのだ。
それから、スーパーマーケットに入り、夕食の材料を買った。Kは、挽肉だの玉葱だのを籠に入れ、僕は安物のウイスキーと殻付きのピーナツを買った。
アパートに帰ると、Kは食事の支度に取り掛かった。
僕は年代物のラジカセにビートルズのカセットを入れた。そして、ウイスキーを飲み、ビートルズを聴きながら梶井基次郎の短編集を読んだ。
やがて、Kがハンバーグの皿を持ってきた。
卓袱台の上に皿を並べながら、Kは、「あなた、ビートルズの中ではジョンがいちばん好きなんでしょう?」と言った。「そんな顔してるわよ」
僕は黙ってうなずく。するとKはこう言った。
「私はポールがいちばん好き。だって、彼がいちばん歌がうまいし、いい曲も書く。顔だっていいでしょ。それに、彼の作る歌って、観念だの思想だの、理屈の入り込む隙間なんてないもの」
僕はウイスキーを舐めた。そして、『ガール』を歌ってみせた。
「ね、必ず音が外れるだろう。こんな難しい歌が歌えるんだから、ジョンだって歌はうまいと思うよ」
Kは食事を終えてコーヒーを淹れた。僕は相変わらず飲み続けた。
「僕といて、退屈じゃない?」
僕が言うと、Kが答えた。
「その質問には、もう少し様子を見て答えるわ」
Kは10時の電車で帰った。僕達はセックスをしなかった。実を言うと、僕は彼女とセックスがしたかったのだが、言い出す勇気がなかったのだ。
それから、Kは度々僕の部屋にやって来た。
Kは、僕に指示を与えながら部屋の掃除をし、それが終わると、僕達は連れ立って散歩に出掛けた。
いつもは、二人で商店街を歩きながら、古本屋をひやかし、蕎麦屋か定食屋で昼飯を食べた。
町のターミナル駅を越えて遠出する事もあった。駅の向こうは繁華街になっている。デパートがあり、映画館があり、飲み屋街がある。もっと遠くに行けば、競馬場があり、競輪場があり、野球場があった。おまけに特殊浴場が林立する区域さえあった。
野球場は、当時、パシフィックリーグに所属しているチームの本拠地になっていた。行ってみて、デーゲームをやっている時などは、外野席に座った。観客はいつも少なかった。それでも数人の私設応援団はいて、トランペットを吹いたり、旗を振ったりしていた。僕達はそこから少し離れたところに陣取り、やはりホームチームの応援をした。そのチームは、きめの細かい緻密な試合運びなどとは無縁だったが、その分、野性味溢れる、なかなか魅力的なチームだった。見たこともないような柔らかいフォームで、若い四番打者が美しい流し打ちを披露していた。
時折その球場で、実業団のゲームをやることもある。その時は、(そんな表現が正しいかどうかは別として)プロの時にも増して観客は少なかった。そんな時は、僕らは堂々と内野席に座った。(入場無料だったからだ)
散歩の帰りには、スーパーマーケットに寄って買い物をした。アパートに戻り、銭湯に行くと、Kは夕食を作った。Kは料理が上手かった。野菜を炒める。肉を焼く。魚を煮る。スパゲティーを茹でる。角の豆腐屋で買ってきた豆腐で、湯豆腐を作る。多彩で手際がいい。僕は、料理によって、ビールを飲み、酒を飲んだ。食べ終わると、Kはコーヒーを飲み、僕はウイスキーを飲んだ。僕達はビートルズを聴きながら、ジョンとポールと、どちらが重要なミュージシャンかについて話し合った。ジョンの場合、どうしても音楽そのものから論点が離れてしまうので、どちらがミージシャンとして重要かということになると、やはりジョンの方が分が悪かった。
Kはいつも「あちら側」にいた。そして、時々「こちら側」にやって来た。だからといって、僕は「あちら側」に行こうとはしなかった。Kが「こちら側」に来るのは、彼女の気まぐれなのだ。たぶん。だけど、僕は、Kが僕を愛してくれているのだと思いたかった。
事実、僕は、Kがどこに住んで、どんな暮らしをしているか、まるで分からなかった。
ある雪の降る日。僕達は隅田川のほとりを散歩した。吾妻橋から言問橋まで、何も喋らずに。僕達は何度も立ち止まり、川辺の風景を眺めた。それは妙に懐かしい風景だった。その懐かしいという感情が、僕は理解できなかった。
僕は東京で生まれ育ったわけではない。むしろ農村の生まれなのだ。だから、幼い頃、こんな風景を見ることはなかったはずだ。それなのに、この胸に込み上げるような懐かしさは、一体何なのか。僕はやけに不安になった。
馬道に入る辺りで、僕らは喫茶店に入った。まるで昔のアメ車のシートみたいな椅子に向かい合って座り、Kはコーヒーを、僕はホットミルクを頼んだ。
爪先がかじかんだ。僕は、布製のスニーカーを履いていたのだ。
ホットミルクには三本のプリッツが付いてきた。僕はプリッツを齧りながら、砂糖を入れたホットミルクを飲んだ。プリッツの塩気と、ミルクの甘さが舌に心地よかった。
僕は、さっき感じた不安を、Kに話してみた。彼女は、僕の心理をこう分析してみせた。
「それは、雪が降っていたからよ。雪がお化粧をさせてくれたから、東京の下町もそう汚れては見えなかった。だって、思い出って、みんなお化粧してるでしょ?」
Kは頭がいいので、つい断定口調になってしまう。だけど、そんなすっぱりとした物言いを、僕は求めていた。だから、僕はKといると、かえって安心できたのだ。
「それにね」Kは少し間を置いて言った。「それはこの町が死にかけてるってことよ。特にあなたは、そんなことを好む傾向があるわ」
僕はどきっとした。が、こう反論した。
「それは認めるよ。だけど、それだけなら僕はこの風景に同化できると思うんだ。それなのに、今、僕は不安を感じている。得体の知れないものに対する不安だったら、君の話を聞いたら消えるはずだろ? けれど、それどころか僕の不安は増す一方なんだぜ」
「答えは簡単よ」Kはさらりと言ってのけた。「もう一方で、あなた自身が、そんな自分から抜け出したいって思っているからよ」
それから、上野に出て居酒屋に入った。熱い燗酒を飲み、おでんを食べた。酔いの回った僕は、いつも思っていたことを言ってみた。
「君とセックスがしたい」
Kはあっさりと言った。「いいわよ。だけど、コンドームはしてね」
「持ち合わせがない」
「馬鹿ね。ホテルに行けば、そんなのいくらでもあるわよ」
僕達は店を出て、鶯谷のホテルに入った。そこで僕達は、僕達にとって初めてのセックスをした。
Kの体は美しかった。乳房は小ぶりで、僕の手にすっぽりと入った。それが、まるで僕のためのサイズのように感じられて、うれしかった。つるりとした柔らかい肌をたどっていくと、こんもりとした陰毛に触れる。Kの匂いがあふれてくる。やがてKの中で、僕はのぼりつめた。
駅でKと別れた。Kは「あちら側」に帰って行き、僕は一人でアパートに帰った。
僕は、一人アパートで、Kとのセックスを思い出した。Kの乳房や性器の感触を、僕はありありと思い出した。たちのぼるKの匂い。唇から漏れる声。Kの細い指が、僕の肩を掴む。お互いがお互いを求め合うセックスだったと僕は思う。
鶯谷の駅のホームでKは言った。
「あなたは、自分で思うほど退屈な人じゃないわ」
僕は、ただただうれしかった。
それからも、Kは僕の部屋にやって来た。
Kが来ると、今までと変わらず、商店街を散歩し、買い物をし、銭湯に行って、夕食を作り、酒を飲んだ。そして、それにセックスが加わった。僕はKに溺れた。僕達は会うたびにお互いを求め合うようになった。
春になって桜が咲いた。
僕達は駅で待ち合わせ、花見に行った。
そこは僕の住む街の郊外にある、小高い丘の上だった。近くには火葬場があった。僕の通学経路の途中にあり、気になっていた場所だったのだ。
小さな駅で電車を降り、駅前の商店でビールとつまみを買った。そして、二人手をつないで長い坂道を上った。
火葬場の隣に小さな公園があり、何本もの桜が植えてあった。見晴らしのいいベンチを選んで座った。
すぐ下に線路が見える。中央線と総武線を走っていたオレンジ色とレモン色を繋げた
電車がのんびり通り過ぎる。
缶ビールを開けて飲む。つまみに買ったチーズかまぼこを囓る。
「桜の木の下には死体が埋まっている」Kがいたずらっぽく言う。「あなたは本当にそう思う?」
僕はそれに直接には答えず、こう訊いた。
「君には、死んだ同級生がいるかい?」
「死んだ同級生?」
「同級生で死んだ人さ」
「同級生が死んだという知らせは、まだないわね」
「僕には死んだ同級生が三人いる」僕は二本目のビールを開けて言った。「中学校の時のが二人。高校のが一人」
Kは黙ってビールを飲みながら、僕の言葉を待った。
「高校三年の時、中学の同級生だった男が死んだ。彼はオートバイで国道を走っていて、右折する車に巻き込まれ、工場のコンクリート塀に激突した。高校3年になったばかりの春だった。
僕は彼とは別の高校に通っていたが、葬式の日は学校を早退して参列した。彼が家の墓に埋葬されると、彼の高校の友だちが、煙草を線香代わりに立てた。真っ赤に目を泣き腫らた女の子がいたのを、今でも覚えている。墓の近くに大きな桜の木があって、満開の花びらを盛んに散らしていた」
僕は三本目のビールを開けた。
「二人目は、大学に入ってすぐの時だった。中学の時、ちょっと仲の良かった女の子だ。付き合っていたわけではなかったし、すごく好きだったわけではないけど、話をしていて楽しかった。中学ではバレーボール部でセッターをやっていた。
彼女は、原付バイクに乗っていて、急停車したトラックに追突して死んだ。田舎だからね、交通が不便だから、高校に入ると皆原付バイクに乗るんだ。もちろん、乗らない奴もいる。僕も乗らなかった。
葬式の日は、大学の履修届提出の日に重なっていたので行けなかった。アパートに戻る前の日、お線香を上げに行った。彼女の兄貴が、ぼんやりと棺の前に座っていた」
「三人目は?」
「三人目は高校の同級生。彼と僕は授業中悪戯書きをしては、お互い見せ合っていた。絵とか、短い文章とか、そんな類いのものさ。僕は自分が書いたものは、全部彼にやっていた。卒業して彼は地元に残り、電電公社に就職した。
その年の秋、食い逃げの客を車で追いかけ(彼の家は食堂をやっていた)、電柱に激突して死んだ。
たった一つ、僕の手元に彼の文章が残っている。それは、ある日朝一番に僕にくれたものだ。彼が夜中に考えたことをとりとめもなく綴ってあった。彼は、こう書いていた。『お前はふと、この人生が夢なのではないか、と感じることはないか。もしかしたら、おれは誰かが見ている夢の登場人物にすぎないのかもしれない。そいつが目を覚ましたら、おれは一体どうなるんだろう』
ねえK、彼らは皆、死ぬ直前まで、自分が死ぬなんてこれっぽっちも思っていなかったんだ」
桜は静かに咲いている。
僕はふと小林秀雄と中原中也が鎌倉で海棠の花見をしている場面を想像する。中原は、既にその早い晩年を迎えていた。小林は海棠の花の散り方に、過剰な規則性を感じ、いたたまれなくなる。
「もう行こう」中原の方が先に言った。
「まったくお前は千里眼だよ」と小林が言うと、中原はお道化たように笑った。
天才同士の鍔迫り合いのような会話だ。
桜の木の下に死体が埋まってる? ここは火葬場だ。そんな所に死体はない。死体は煙となって空に上り、やがて雨となって地面にしみこむのだ。
「ねえ、アパートに帰って飲み直さない? 私、何か作るよ」とKが言う。
K、君も全くの千里眼だよ、と僕は呟く。
ある時、僕は雑誌に載っていたユトリロの絵を切り抜いて、部屋の壁に貼った。あの、何とか小路とかいう有名なやつだ。
Kは、この絵があまり気に入らない様子だった。
僕はその頃、カミュの『異邦人』に凝っていて、そればかり繰り返し読んでいた。時折僕は、Kに冗談交じりにこう言った。
「僕が君を殺すとしたら、太陽のせいだぜ」
それに対し、Kは真面目な顔で言ったものだった。
「私があなたを殺すとしたら、あの絵のせいよ。あんな陰気な絵、見たことないわ」
僕が苦闘していたのは、結局、僕自身だった。自我という得体の知れないものを相手に、終わりのない戦いを続けてきたのだ。
モーリス・ユトリロは、アルコール中毒の治療のために絵を画き、夏目漱石は、神経衰弱を紛らわすために小説を書いた。
ユトリロも漱石も、言ってみれば荒れ狂う自我から逃れようと、酒を飲んだのだろうし、作品を残したのだろう。彼らは、他人を怖れ、自分を怖れ、結果として優れた作品を残したが、自分自身は、ついに救われなかった。
彼らの作品が、自我を手なずけるために作り出されたものだとすれば、それは、いかに世に認められようと、永遠の失敗作のはずだ。
同じ事が、あらゆる芸術家について言えるだろう。
うたわずにいられなかった者の不幸を、描かずにいられなかった者の苦悩を、僕は分かるような気がする。恐らく、彼らの苦悩が深ければ深いほど、彼らの悲しみが深ければ深いほど、その作品はきらめきを増すのだ。そして、受け手は喝采を送る。作者の不幸に。
Kは、切羽詰ったような、そんな考えから、僕を救ってくれた。Kには、観念も象徴も通用しなかった。彼女は物事を好悪で割り切れたし、彼女にとって一足す一は、常に二だった。
Kは、よく僕にこう言ったものだった。
「あなたは、答えの出るはずのない事に、あれこれ理屈づけをしようとしているのよ」
彼女の言葉は、僕の過去をものの見事に否定してくれたが、案外僕自身そのことを望んでいたのかもしれない。
Kとのセックスは、まさにコミュニケーションだった。それは、よく訓練されたキャッチボールのようだった。僕が投げ、Kが受ける。Kが投げ、僕が受ける。僕はKが取りやすい球を投げ、Kは僕が取りやすい球を投げた。僕は、Kのどこを押せば、Kが溢れ出るのかを知っていたし、Kは、僕のどこを押せば、僕がのぼりつめるかを知っていた。
セックスの時、僕達は実に色々な事を話し合った。全く、お互い話し合うためにセックスをしていたみたいだった。Kときたら、自分が以前付き合った男の話を平気でしたし、僕にしたところで、エドガー・アラン・ポーの悲劇的な最期についての話をしたりしたのだ。
射精の後、僕は決まってユトリロの絵を見た。
ユトリロの白は、精液の白だ。あの、陰鬱な薄汚い白は、まさしく僕らの精液の色なのだ。僕は、パレットの上の白い絵の具に、自慰の後の精液を混ぜるユトリロを想像した。そうなんだ、モーリス・ユトリロ。僕達は、うんざりするほど、永遠の自慰を続けなければならない。誰もが分かっている。永遠のテーマは、自分自身だ。ユトリロの描いた風景画は、全て、自分自身の後ろに広がる背景にすぎない。
Kは、僕とセックスした後も、必ず帰って行った。どんなに遅くなっても、自分の場所に帰るのだ。僕は、泊まっていけばいいとは言わなかった。Kは、当たり前のように部屋を出て行った。説明をする余地もないくらい、それはKにとって当然のことだったのだ。
Ⅱ
ある時、Kが、日本でいちばん早く朝が来る土地へ行ってみたい、と言い出した。
どうしてそんなことを言い出したか、僕には分からなかったが、僕もそこへ行ってみたい気がした。
「そこは、具体的に言うとどこなんだ?」
「太陽は東から昇るから、日本の東の端ね。日本の最東端は南鳥島。でも、これは無人島だし現実的ではないわね。人が行ける所では、北海道の納沙布岬じゃないかしら」
「根室に友達がいるな」
「え?」
「根室に友達がいるんだ。もう奴は卒業していて、結婚もしている。水産加工会社の社長の息子だ。親父の会社で働いている。僕も一度彼の家に行ったことがある。いい所だよ」
「連れてってくれる?」
「もちろんさ」
こうして僕達は旅に出たのだ。
夜9時の上野駅は、人々の吐く、白い息でいっぱいだった。僕達は、寝台車のベッドに荷物を置くと、売店に行ってビールとワンカップの日本酒を買った。そこでKは、文庫の推理小説を数冊、買い込んだ。上野駅の売店は、酒のつまみも売っている。僕達は、茹で卵と枝豆とイカの燻製を買った。
がたんとひとつ揺れて、あっけなく列車は走り出した。僕達は、下の寝台でビールを飲んだ。
窓の外は、しばらく東京の下町の風景が続いた。線路のすぐ側まで、木造の家が迫っていて、窓にはひとつひとつ灯りがともっていた。路地はしんと静まり、人気はない。工場は、夜にもかかわらず、煙突から煙を吐き出していた。
江戸川を越えると、街の灯はしだいに少なくなり、やがて窓は黒い壁となった。その黒い壁に、僕とKの顔が映った。
僕がビールから日本酒に切り替えたころ、列車は僕の田舎の辺りを通過する。何も見えない窓の外を指差して、僕は言った。
「確かこの辺だ。山があってさ、その向こう側に僕の家がある」
「何も見えないわ」
「街灯なんかないからね。ひどい田舎なんだ」
僕はワンカップの酒を口に含む。
「ひどい田舎でね、村の中に本屋なんて一軒もない。休みの日には、自転車で隣の町まで行ってね、立ち読みをするんだ。意地の悪い婆あがいてさ、10分もすると追い立てる。本屋はそこにしかなかったし、そこは学校の教科書なんかも卸してたから、そんな商売ができたんだろう。この頃帰ってないけど、あの婆あ元気かな。元気だろうな。ああいう婆あは長生きするんだ。三國連太郎みたいな顔してたな」
「私、あなたが子供だった頃のこと、興味あるな。どんな子だったの?」
「どんな子供だったって?」
僕は枝豆を口に運んだ。びちゃびちゃの水っぽい枝豆だった。冷凍ものだからかな。そんなことを考えながら、とりとめもなく話し出した。「どこにでもいるような子供だったよ。田舎ならどこにでもいるような子供さ。洟たらしてチャンバラやって」
Kは黙って聞いていた。皮肉屋で、いつもは何か言わなければ気の済まないKが、どうしてか、この時は、黙ってビールを飲みながら聞いていたのだ。
「周りに家なんかないだろう、同じ年頃の子供が、本当に少ないんだ。遊び相手を確保するためには、そいつらに気に入られないといけない。一人で遊ぶのはつまらないからさ、常に気に入られることに一生懸命だったな」
話しているうちに嫌悪感でいっぱいになる。何でこんなことを話しているんだろう。僕は変わっていない。あの頃と、うんざりするほど変わっていない。
「おまけに、おばあちゃん子でさ、このおばあちゃんが僕を溺愛していた。会う人会う人に、いい孫だ、いい孫だって言うんだ。そう言われるとさ、本当にいい子にならないと、おばあちゃんが可哀想だろ?そうだな、僕はずっといい子になりたかったんだ。色んなことを我慢してさ、皆に気に入られたかったんだ。お前はいい子だよって言ってもらいたかったんだ」
K、もうよそうよ、こんな話。つまらないよ。僕はあの時のままだ。僕は君に誉めて欲しいんだ。君に、あなたはいい人よ、って言って欲しいんだ。
「私の生まれたのは、西の方でね」Kは、僕のことには構わずに話し始めた。「私は生まれてすぐ、東京に来たの。でも、両親が西の人だったから、家ではずっと西の言葉で育ったわ。学校へ入ったら笑われたわ、言葉がおかしいって」
K、いいよ、もう。君だって君以外の誰でもない。僕はそんなことを思いながら、酒を飲んだ。だが、それを言葉にすることはなかった。
「私の父はね、ミシン会社のセールスマンでね、毎日毎日、デパートでミシンを踏んでたの。夕食前に飲む一本のビールが、彼の唯一の楽しみだったわ。私も弟も、父のことを退屈な人だと思っていたけど、それは言ってはいけないことだと、二人とも知っていた。それでも、友達とデパートに行くのは嫌だったな。ミシン売り場で、父が背中を丸めてミシンを踏んでいるかもしれないから」
Kは他にも、狭い社宅の話や、彼女の初恋の話や、初潮の話さえした。
ずきずきと頭が痛んだ。まるで脳みその中に、釘でも打ち込まれたみたいだった。
Kがようやく話を切り上げ、僕は上の寝台に上がった。横になると、網棚の上で寝ているような気がした。列車の振動は、規則的に僕の体を揺り動かした。僕は泥のように眠りに落ちながら思った。K、この列車はどこへも行かないのかもしれないな。何かから逃げるように、一目散に走っているけれど、結局、どこへも行かないんじゃないかな。
明け方、目を覚ますと、列車はもう青森県に入っていた。陰鬱な空の下に雪景色が広がっていた。それはまさに、ユトリロの白だった。
間もなく、列車は青森駅に着いた。上野駅にいた時より、もっと白い息を吐いて、乗客は列車を降りると、連絡船へ向かう陸橋を上って行った。僕達は、お腹が減っていたので、売店でうどんを食べた。
「このおつゆ、まるで、泥みたいな色してる」Kは、うどんの端っこを咥えて言った。
そのつゆは、恐ろしいくらいしょっぱかったけど、この寒さに打ち克つためには、それくらいの塩分が必要なのだろう。
うどんを食べ終わると、僕達は船に乗り込み、畳敷きの二等客室で横になった。うつらうつらしているうちに、船は北海道に着くはずだ。船に弱い僕は、眠ってしまおうと、必死に目をつぶった。
「船が出るところを見ない?」その時、Kが言った。「甲板に出ましょうよ」
僕は、少し面倒臭かったけど、それでも結構興味があったので、起き上がった。甲板に出ると、外は霧のような雪が降っていた。僕達はしっかりと手を握り合った。
船はゆっくりと汽笛を鳴らし、まず後ろ向きに発進した。そして、まるで車庫入れをするように進路を変え、今度は前向きに進み出した。
左手の方向に、雪にけむって津軽が見えた。僕は、Kに言った。
「津軽だよ。太宰治が生まれた所だ」
Kは何も言わず、僕の眺める方向を見ていた。僕は続けた。
「あの向こう側に、小泊という村がある。昭和十八年、太宰は生まれ故郷の津軽を旅して、小説を書いた。彼は地主の大金持ちの家に生まれたんだけど、両親や兄達にはなじめず、使用人や乳母の間で育った。中でも可愛がってくれたのが、たけという子守りだった。後にカフェの女給と心中事件を起こしたりしたもんで、太宰は実家では肩身が狭く、居心地が悪い。だけど、使用人だった人を訪ねるところになると、太宰の文章は、途端に生き生きとし出す。『津軽』という小説のクライマックスは、何と言っても小泊村のたけに会いに行く場面だな。運動会をやっている小学校の校庭で二人は再会するんだけど、僕はこの場面を読むと、いつも泣いてしまうんだ」
津軽半島はやがて、視界の外に遠ざかった。僕は、Kを甲板に残し、船室に戻った。そして、ビールを飲んで横になると、とろとろと浅い眠りに入っていった。その浅い眠りの中で、僕はKの夢を見た。Kは僕の目を真っ直ぐに見ながら、結婚してくださいと言った。こんなことがあるはずないじゃないか、夢を見ながら、僕はそう思っていた。
船は、昼少し前に函館に着いた。明け方にうどんを食べたきりだったので、とりあえず昼食をとることにした。とにかく、何も考えたくないくらいお腹が減っていたのだ。
そこで、駅前の食堂に入り、僕はカツ丼を、Kはタンメンをそれぞれ食べた。僕達は黙々と丼を空にした。
「船の中で、僕が眠っている間、何をしてたの?」熱いお茶を啜りながら、僕はK尋ねた。
「海を見てたわ」両手で茶碗を持ちながら、Kは答えた。「ずっと海を見てた。それに飽きたら、上野で買った本を読んでた」
「面白かったかい?」
「犯人は分かったわよ。ちょっとてこずったけどね」
「僕にも読ませてくれよ。百ページで犯人を当ててみせる」
「百ページまでに何も起こらなかったらどうするの?」
Kは笑って言った。僕も口元で笑った。
勘定を払って表に出る。重たい空からは雪がちらついていた。
「これからどうするの?」Kが訊いた。
「真っ直ぐ根室に行ってもいいけど、」僕は答えた。「せっかく北海道まで来たんだから、少し観光していかないか?大学の先輩がこの街にいるんだ。今なら、会社に電話すればいるかもしれない」
「それもいいわね。」Kは同意した。「私、イカそうめんと蟹が食べたいわ」
「蟹は、根室で嫌って言うほど食べられると思うけどね」
僕達は、適当な喫茶店に入り、先輩の会社に電話をした。先輩は、突然僕達がやって来たことにかなり驚いていたが、ちょうど今日はそれほど忙しくなかったんだ、と言ってオーケーしてくれた。
一時間して先輩が現れた。
「よく来たな。急だったんでびっくりしたよ」先輩はジャンバーを脱ぎながら言った。
「彼女が来たいって言ったもんですから」
「お前みたいな不精者でも、彼女の言うことは聞くんだな」
先輩は15分かけて僕の不精さについての話をし、KはKでそれに大いに同意したどころか、新たな不精話を先輩に話して聞かせた。
「全くどうしようもないんだから。この間なんか、炊飯器の中、カビがはえてたんですよ」
「そんなことはもういいじゃないか」僕は苦笑して口を挟んだ。「それより、そろそろ行きませんか?Kだってこんな話、いつまで続けたいわけじゃないだろう?」
「それもそうね」と言って、Kは立ち上がった。「でもね、炊飯器ぐらいは洗いなさいよ。あんなので御飯を炊くと思うと、ぞっとするわ」
分かった分かったよ、と僕は笑いながら頷いた。そして僕達は、店の駐車場に停めてある、「医療器具のムトウ」と書かれたライトバンに乗り込んだ。
海岸にある啄木の碑。ギリシャ正教の古い教会。バター飴で有名な修道院。名所を一通り、先輩は案内してくれた。
煉瓦造りの修道院をぼんやり眺めながら、Kは言った。
「ねえ、ジョンってさ、修道尼におしっこひっかけたことがあるんだって?」
僕は煙草をふかしながら答えた。
「ハンブルグ時代だな。汚い安宿に四人が寝泊りしてた頃だ。ドラマーはまだピート・ベスト。ポールだったかな、下を尼さんが通るぜ、って言ったら、ジョンが、洗礼だって笑いながら窓から小便をひっかけたんだ」
「私、その話がいちばんジョンらしいと思うわ」
そう言って、Kはまた修道院を眺めた。
Kが気に入ったのは、五稜郭だった。それも、展望台のエレベーター。そこには「イカソーメンの作り方」というイラスト付きの図解があって、その①に、「まず、海からイカを取って来ます。」というのがあったのだ。Kはそれを見てげらげら笑った。
「気に入ったわ」Kは言った。「ここで記念写真を撮りたいくらいよ」
イカそうめんと蟹を食べる前に、函館の夜景を見ようと、僕達は函館山に登った。函館山の頂上は、雪がぱきんぱきんに凍っていた。僕は、展望台に向かう小道で、オーバーに手を突っ込んだまま派手に転び、先輩とKに笑われた。
函館の街は、その両側を海に挟まれている。だから、街の灯はまるで天の川のように見える。
「遠くから見たら、皆同じね」Kが言った。「たかが何キロか離れただけで、誰が楽しんでようと、誰が落ち込んでようと、同じにしか見えないんだわ」
きんと澄んだ空気に、街の灯が瞬く。
「神様も同じかな?」僕は少し目を落として言った。「神様から見たら、僕らも同じように見えててさ、誰が楽しんでようと、誰が落ち込んでようと、神様は気づかないんじゃないかな」
「そうね、多分気づかないんだろうけど」Kは少し真面目な顔をして、僕の方に向き直って言った。「神様は、無意識のうちに、その人その人にとって、いちばんよいようにしてくださるんだと思うわ。あなたが意識しないで手足を動かせるようにね」
そう言って、ちょっと笑った。
「だって、神様はそのためにいらっしゃるんだもの」
先輩がいなかったら、僕はKを抱きしめていたに違いない。僕がKにいかれたのは、こんなひと言があるからだ。時に、辛辣で皮肉屋ではあったが、Kのこんなひと言は、僕を救ってくれた。Kがいたから、僕はここまで来られた。Kがいれば、僕はよりよい方向に進める気がする。相変わらず僕は得体の知れない人間で、膨れ上がる自我を持て余してはいたが、それでもKと一緒なら、それらともうまくやっていけるだろうと思った。
それから僕達は、大門という函館一の繁華街に出て、イカそうめんと蟹をたらふく食べた。Kは大喜びで蟹の身をほぐした。蟹やイカは、まるで生きているみたいに身を躍らせて、Kの口の中へ入っていった。
僕は先輩と、大学の話や仕事の話を、ぽつりぽつりと話した。
「どうするつもりなんだ?」先輩が言った。「単位はほとんど取っているし、後は卒論だけなんだろう?今年も卒業する気はないのか?」
「自分でもよく分からないんです」先輩の空になったコップにビールを注ぎながら、僕は言った。「自分に何ができるのか、何をしたらいいのか、恥ずかしい話なんですが、本当に分からないんです」
先輩はゆっくりビールを飲み干し、そして言った。
「お前のしなきゃならんことはだな、大学の就職課に行って、求人票を見て、これならいいかと思えるくらいの給料をくれて、これならいいかと思えるくらいの休みをくれる会社を見つけることだ。誰もがそうやって生きているし、お前も、いつまでもこうしているわけにはいかないんだからな」
先輩の言うことは正しい。僕はすぐにでも大学の就職課に行き、求人票をめくった方がいい。大学は、僕一人の就職口ぐらい何とか見つけてくれるだろうし、そのための相談にものってくれるだろう。
「いいか、それにな」先輩は口についた泡を舐めながら言った。「お前はこんなことを言う俺を、軽蔑しているんだ」
「そんなことはありません」
「いや、そうじゃない」先輩は僕の目を見据えた。「お前は、俺や、お前の両親や、あくせく働いて毎日を過ごしている人間を、軽蔑しているんだ」
「そんな・・・。」
「だがな、これだけは言っておく。お前はいつかこのツケを払わなければならない。それが一生かかろうとな」
そんなことよりも、と僕は思った。確かにそうかもしれないけれど、とりあえず僕がしなければならないのは、Kを日本でいちばん朝が早く来る所に連れて行くことだ。僕のこれからのことを考えるのは、それが済んでからでいい。それしか、今の僕には考えられないのだ。
僕達は、それから三軒、店を変えた。財布をなくしてね、と先輩は勘定の度に給料袋を出してみせた。
最後の店で寿司を食べた。味なんて、ほとんど分からない。随分飲んだせいだ。Kも半分眠りながら、僕らに付き合っていた。
その夜は先輩のアパートに泊めてもらった。夜中に先輩は吐いた。何か薬をくれというので、僕はサイドボードにあった風邪薬を渡した。
朝早く、先輩は出て行った。仕事に行ったのだ。僕は、寝ぼけ眼で先輩を見送った。Kはまだ布団の中で寝息を立てていた。
僕達は、昼過ぎ、札幌へ向かう特急列車に乗り込んだ。列車の中は暖房がきつく、セーターだけでいても暑いくらいだった。
「全く極端なんだから」とKは不満をもらした。
札幌に着くまで、僕はビールを飲みながら窓の外を眺め、Kは二冊目の推理小説に取り組んでいた。
札幌には、夕方着いた。僕達は、駅前の旅行案内所で空いているホテルを見つけ、チェックインすると、街へ出て映画を観た。地下へ下る、古びた名画座で、ビートルズ特集がかかっていたのだ。『ヤア・ヤア・ヤア』、『ヘルプ』、『レット・イット・ビー』の三本立てだったが、僕達は『レット・イット・ビー』しか観ることができなかった。
Kがポップコーンを買い、僕がコーラを買ってシートに座る。やがて、映画が始まった。スクリーンの中では、ポール・マッカートニーが懸命にメンバーをまとめようとしている。だけど、しゃかりきになっているのは彼だけだ。ポールは、やがてリンゴ・スターを不機嫌にさせ、ジョージ・ハリスンと諍いを起こす。ポールはジョンに向かって歌う。「僕達、家に帰ろうよ」、「いつだって僕の曲がりくねった道は君のドアに続いていたんだ」と。まるで別れ話を持ちかけられた恋人に向かって哀願するみたいに。
しかし、ジョンは無表情に、ジョージの『アイ・ミー・マイン』に合わせてヨーコとワルツを踊ったりしている。それから、遠い目をして歌うのだ。「誰も僕の世界を変えることはできない」
ジョンのやる気のなさは、『ホワイト・アルバム』以降、目を覆うばかりだ。あの中で彼が歌うのは、『アイム・ソー・タイアード』や『ヤー・ブルース』のような絶望的な歌や、『バンガロウビル』のような戯れ歌でしかない。そりゃあ『ジュリア』のような美しいラブソングはある。だけど、あれだってどこか痛々しい印象を受ける。
さらに、『アビー・ロード』になると、「お前が欲しい。気が狂いそうだ」というだけの歌詞を延々八分間も歌い続ける。ジョン自身は、自分の感情の高まりをシンプルな言葉で表現したリアルな歌詞だ、と言っているが、あのうんざりするほど重苦しいリフレインは、ジョンの精神の後退を物語っている。
そして、今、映画『レット・イット・ビー』の中で、ジョンは、ガキの頃作ったロックンロールや、リバプールの酔っ払いが歌う春歌を歌ってお茶を濁している。
何がジョンをここまで荒ませてしまったのだろう。スクリーンの中にいるジョンは,永遠のアイドルなんかではなく、傷つき打ちのめされた、ただの汚いルンペンだった。
映画は、有名なアップル屋上のセッションで終わる。「帰ろう、帰ろう、元の所へ」と必死でポールが叫んだ後、ジョンが皮肉な笑みを浮かべてこう付け加える。「今のでオーディションに受かったかな」
ひとしきり空虚な笑い声がかぶり、画面がストップモーションになって映画は終わった。
ジョンは一九七〇年代のある日、ロサンゼルスでこの映画を見て、一人泣いたという。それほどまでに、この一時間二十分は、悲しく空しい。
映画館を出ると、僕達はススキノへ向かった。Kが、蟹を食べたいと言ったのだ。よっぽど蟹が好きなんだな、と僕が言うと、だって蟹座の生まれだもん、とKは胸を張った。それじゃあ僕の妹はサソリ座の生まれだから、サソリを尻尾から齧るんだな、と言ってやった。
僕達は、蟹の大きな看板のある店に入った。そして、ビールを飲みながら、やけに貧相な蟹をつついた。店員の応対も悪く、僕達はがっかりして、ビール一本飲んだだけで勘定を済ませた。それからラーメン横丁へ行き、味噌ラーメンを食べてホテルに帰った。
ベッドに入り、ぼんやりと眠りに落ちていく中で、そういえば旅に出てからKとセックスしていないな、と思った。Kは眠ったのだろうか。身動きする気配さえ見せなかった。
根室に行くのに、僕達は、旭川、網走、釧路を通って行くルートを選んだ。途中、旭川と網走に泊った。長い長い列車の旅だった。その、長い列車の旅の間、僕達は、乗客の中にいる金星人を捜して遊んだ。Kの説によると、百人に一人ぐらいの割合で金星人が混在しているらしい。そして、金星人は虎視眈々と地球の金星人化を狙っているという。
Kは真顔で言った。
「金星人と地球人の割合が逆転する時、金星人は地球人の支配に乗り出すの。金星人は文化的レベルが高いから、乱暴なやり方はしないけど、知らないうちに私達は支配されてしまうの。そうなったら、私達は、定められた居住区の中で、檻の中の自由を与えられて、そこで一生を終えるのよ。だから、今のうちに金星人を見つけておかなくてはならないわ。金星人は、私達より、想像もできないほど文明が進んでいるから、私達に順応するくらい屁の河童なのよ。まず普通じゃ見分けがつかないわね」
「おいおい」僕は言った。「金星っていったら、太陽に二番目に近い惑星だぜ。そんな所の人間が、こんな寒い所にいるわけないじゃないか」
「馬鹿ねえ。」Kが答えた。「今言ったばかりじゃない。金星人は、私達の想像できないくらい文明が進んでいるのよ。そのくらい何とかするわよ」
「分かったよ」僕は言った。「捜すのはいいけど、どうやって捜すんだ?ほとんど見分けがつかないんだろ?」
「コツがあるのよ」Kが言った。「金星人から見れば、地球人なんてレベルの低い野蛮な人種じゃない?自分よりレベルの低い人間に囲まれてる人って、必ず二つのタイプに分かれるわ。極端に傲慢か、極端に優しいか。でも、金星人は文化的に進んでいるから、きっと優しいでしょうね」
それから僕達は、たっぷり時間をかけて金星人捜しを始めた。僕は、最初、僕達にコマイの干物をくれた行商のおばさんを金星人だと主張したが、Kはそれをあっさりと否定した。
「金星人は、はにかみやなのよ。自分から声をかけるなんて、まずあり得ないわね」
「はにかみやが何で地球人支配なんか企てるんだい?」僕はあきれて言った。
Kは、涼しい顔をしてこう言った。「それは神様が命令したからよ」
「どうして?」
「だって地球人って田舎者だから、どんどん宇宙を汚していくでしょ?今だって宇宙衛星なんか数え切れないくらい飛び回っているし、アポロなんか、切り離した部分をそのまま宇宙空間に捨てているのよ。神様から見れば、そんなのたまんないわけ。そこで文化的に我々より進んでいる金星人に、地球を支配させちゃおうと思ったわけよ」
「それじゃ僕達、黙って支配された方がいいんじゃないのか?」
「そうだけど」Kはちょっと口角を歪めた。「でも、知らないうちに支配されるって癪じゃない?支配する人の顔ぐらい見ておきたいわ」
たっぷり三時間捜したけど、金星人らしき人はいなかった。僕が、あの人そうなんじゃない?と言う度に、Kは悉くそれを否定した。
「もしかしたら」Kは僕の顔を覗き込んだ。「あなた、金星人じゃない?正直に白状しなさいよ」
「僕は支配するタイプじゃないよ」
「もともと金星人はそういうタイプなの。神様に言われて仕方なくやってんのよ」
「僕には君が金星人に見えるよ」僕はあきれて答えた。
釧路で根室行きに乗り換える。釧路から根室へ向かう沿線の風景が、僕は好きだ。地平線と真っ直ぐな道という、いかにも北海道らしい眺めは影をひそめ、川、湖、原野、海とかなり起伏のある景色が楽しめる。
僕は缶ビールを飲みながら、ずっと窓の外を眺めていた。Kは、(何冊目になるだろう)推理小説に取り掛かっていた。
「面白いかい?」僕が訊くと、Kはすまして答えた。
「面白いと思って読んじゃいないわ。自分を納得させたいために読んでいるのよ」
「どういうこと?」
「簡単に言うとね」Kは本を伏せた。「作者に負けたくないのよ」
「もう少し、分かりやすく言ってくれないかな」
「そうね」Kは、少し考え込んでから言った。「推理小説の作家っていうのは、―当たり前だけど―あらかじめ知っているわけじゃない?それを最後までもったいぶって明かさないでしょ?読者はそれを終わる前に知りたいわけよ、自分の力で」
Kはほんの少し間を置いて、僕のビールを一口飲んで言った。
「つまり、そういうことよね」
「ふうん」
そして、Kはまた、本を開いて目を落とした。
根室には夕方着いた。駅前の小さなロータリーには、僕の友人がワゴン車で迎えに来ていた。友人は、その風貌から、仲間には「せいうち」と呼ばれていた。
僕は、せいうちにKを紹介し、車に乗り込んだ。
「会社の車かい?」と僕が尋ねると、「家のみたいなもんだけどな。」と彼は答えた。
ワゴン車は街中を抜けて、せいうちの家に向かう。
根室というのは、名前が知られているわりには小さな街だ。商店街は、ほとんどの店が八時には閉まってしまうし、娯楽施設といったら、数軒のパチンコ屋と、一軒のボウリング場があるだけだ。
それでも、北の寒い空気は、きっぱりと空を澄み切らせていたし、やがて、空よりも青いオホーツクの海が、眼前に広がりだした。
せいうちの家は、この街で水産食品の加工会社をしていて、彼もそこで働いているのだった。
家ではせいうちの妻が、僕達を出迎えた。せいうちは大学を出ると同時に、高校の同級生と結婚した。僕も式には出席し、祝福のスピーチをした。彼らは、阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』に乗せて入場し、皆を呆気にとらせた。
僕達は、まずせいうちの家で、彼の両親に挨拶をした。お茶を飲みながら、世間話をした後、工場脇の離れへ案内された。そこには、僕達がびっくりするほどのご馳走が用意されていた。花咲蟹、毛蟹、タラバガニ、筋子・・・。どれもこれもが新鮮だった。Kはそれを片っ端から平らげた。
「すごい。身がこんなに詰まっているわ。」Kは思わず、驚嘆の声を上げた。
僕とせいうちは、ビールを飲む。彼の妻がお酌をしてくれた。彼女は、こざっぱりとした気さくな人で、親しみやすかった。
せいうちは、北の街での生活の厳しさについて語った。僕は、所詮、ゴクつぶしのプータローなので、頷いているしかなかった。彼の苦労は充分なほどに分かったが、どうしても彼の方が幸福に思えてならなかった。
「人間っていうのはな」せいうちは赤い鼻を擦りながら言った。「やっぱり、働くために生まれてきたんだと思うよ。得意先を回ったり、箱詰めのイカを運んだり、そんな毎日の中で、なんて言ったらいいのかな。何だか分からないけど、実感が沸いて来るんだ。もしかしたら、俺はこうやって、北の街で箱詰めのイカを運ぶために生まれてきたんじゃないかってな。だからといって、俺は絶望してるわけじゃない。むしろ、それが誇らしく思えるんだ」
そして、少し笑って言った。「馬鹿みたいな話だけどな。」
「うらやましいよ。」僕は答えた。「僕なんか、何のために生まれてきたのか、未だに分からないんだ。」
「お前にだって分かるさ。」せいうちは言った。「それには、まず卒業することだ。あの、大学って所から出てみるべきだ。お前は、あそこに逃げ込んでいるだけなんだ。」
せいうちの妻は、Kと話をしていた。彼女は、Kとは対照的なタイプに思えた。彼女には凡庸な強さがあり、生活の重さがあった。Kには、どこか刃物のような鋭さがある。それは、僕に向かって切りかかってくることもあるし、時には自分自身を切り刻んでしまう。せいうちの妻は誰にも切りかかっていかないし、自分を切り刻むこともしないだろう。切りかかるような状況に、彼女は身を置かないに違いない。
僕は、せいうちに、翌朝車を貸してくれるように頼み、なおも勧めてくれる酒を、明日早いからと断った。彼らは食卓を片付け、母屋に引き上げた。
その夜、布団に入ると、僕達は激しく求め合った。Kは自分から服を脱ぐと、いきなり僕のズボンを脱がし、ペニスを口に含んだ。僕はKの下着を剥ぎ取り、性器の辺りを舐め回した。奇妙な形だ。まるで二匹の蛇がお互いを飲み込もうとするように、僕達は絡み合った。Kの口の中で、僕は勃起する。射精すまいと、思い出す限りの数学や化学や物理の公式を頭に思い浮かべる。
Kは喉の奥でうめきながら、なおも僕のペニスを吸い続けた。僕には彼女の表情は分からなかったが、鼻先で分泌される膣液の量で、彼女が興奮していることを知ることができた。Kの存在が、目の前にある性器に集約されている気がした。今、僕にとってのKは、間の前にある性器なのだ。
僕は、Kの尻を広げ、肛門を舐める。肛門への愛撫をいつもはしていない。しかし、この日はそうしてもいいと思ったのだ。その時、びくんとKは身を震わせ、僕のすぐ目の前でぷすんとおならをした。あまりに意外な出来事だったので、僕はたまらずKの口の中に射精してしまう。Kは僕のペニスから口を離すと、精液を滴らせながらキスを求めてくる。
僕はそれに応じた。Kは精液だらけの唇で僕の唇を吸い、舌を差し込んでくる。僕は舌を絡ませながら唾液を流し込む。
長い長いキスの後(それは一晩中続くかと思われた)、Kは再び僕のペニスを吸った。そして、僕が勃起すると、上からまたがってそれを自分の中に突き立てた。Kは今までにないくらいの、激しい叫び声をあげた。
翌朝僕達は、まだ暗いうちに起き出した。気温が何度だったかなんて分からない。まるで、痛いくらいの寒さだった。せいうちが貸してくれたミラージュに、僕とKは乗り込んだ。せいうちは、車の中で食べるといいと言って、握り飯とコーヒーの入った魔法瓶を渡してくれた。
「すまないな。」と僕が言うと、彼は笑って答えた。
「気にするな。それより納沙布への道は分かってるか?車の中に地図があるから、分からなくなったら、それを見ろ。」
「ありがとう。」
「道が凍っているかもしれないからな、気をつけていけよ。」
「ありがとう。」僕がもう一度礼を言うと、せいうちは、Kに聞こえないように、しかしお前らも物好きだな、と言って笑った。
カーステレオには、ビートルズの『ラバー・ソウル』が入っていた。多分、妻の趣味なんだろう。何しろせいうちは、ビートルズは重くて嫌いだ、と言っていたのだから。テープはその一本しかなかった。そこで僕達は、『ラバー・ソウル』をかけっぱなしにしながら、暗い道を進んでいった。
神経を使うドライブだったが、僕達は何とか納沙布に着いた。もちろん、夜明け前のこんな所に、僕達の他に人っ子一人いなかった。不安になる程、波の音が大きい。暗闇の中で、海は得体の知れない生き物のように動いていた。
僕とKは、車の中でヒーターをかけたまま、コーヒーを飲んだ。しばらくして、Kは独り言のように話し出した。
「中学生の頃、同じように、こうやって震えながら朝を待ったことがあったわ」
僕は窓を少し開け、煙草を吸った。そうして、Kの言葉を待った。Kはコーヒーを飲みながら、ごく自然に喋り出した。
「憶えてる?どれぐらい前になるかな、すごく大きな台風が来て多摩川が氾濫したことがあったでしょ?その頃、私は多摩川沿いの分譲住宅に住んでいてね、台風の時は、家族と一緒に中学校の体育館に避難していたの。
「父がミシン会社で営業やってたことは前に話したわね。父は毎日毎日デパートでミシンを踏んで稼いだお金を貯めて、やっとの思いでその分譲住宅を買ったの。退職金までカタに入れてね。私もうれしかった。何しろ、あの狭い社宅から抜け出し、自分の部屋を持てたんだもの。
「台風が来たのは、私達が越して来てから半年も経たないうちよ。私達の家族は、暗い体育館の隅で、朝が来るのを待っていたわ。肌寒くって、私は震えていた。その時私は思ったの。その朝がどんな悲劇的な結果をもたらしてもいい、ただただ早く来て欲しいってね。その夜がどんなに長かったか、あなたに分かる?
「夜が明けると同時に、私達、それだけじゃないわ、体育館にいた全ての人は自分の家の方へ駆け出した。その時はもう多摩川は一面の泥の海だった。そして私達は見たのよ。自分達の家が、ぷかぷかとその泥の海に浮かんで流れて行くのを。それも悲しいことに皆同じような造りだから、どれが自分の家か見当がつかないのよ。全く、自分の家に大きなリボンでもつけときゃよかったと思ったくらいよ」
何も言えなかった。何を言ったらいいのか、まるで分からなかった。
空の縁が白くなりかけていた。波の音が、幾分静かになったような気がした。
「もうあんなうんざりするような長い夜はいやよ。あの暗闇の中で、私は日本でいちばん早い夜明けを望んでいたのよ」
日本でいちばん早い夜明けは、今、まさに目の前に広がっていた。僕達はもう一杯コーヒーを飲んだ。カーステレオからは、何度目かの『ガール』が聞こえていた。
せいうちの家に戻ると、僕はすぐに横になり、貪るように眠った。どれくらい眠ったろうか、僕が起きた時、既にKの姿はなかった。このことが何を意味するのか、僕は分からなかった。何よりこの事態が、僕には飲み込めなかった。
僕はあわててせいうちの所に行き、Kのことを訊いた。
「用事があると言って帰ったぞ」せいうちはのんびりした声で答えた。
「用事があるって?」僕は混乱して言った。「ここは根室だぜ。しかも連れがいるっていうのに」
「仕方ないじゃないか」せいうちは事も無げに答えた。「帰りたいって言うんだから。要するにお前は振られたんだ」
そういうことなのか。そうなのか。Kは、もう僕のアパートにやって来ないのか。僕の部屋で、しかめっ面をしてコーヒーを飲むこともないのか。僕の話に的確な批評を加えることもないのか。
僕は、Kの性器や肛門の形を知っている。だけど、Kがどこから来るのか知らない。Kは向こう側へ去って行った。そして、二度と帰って来ない。たぶん。二度と。
「なあ」僕はうつむいて言った。「僕のどこが悪かったんだろう?」
「どこも悪かないさ」せいうちは言った。「きっと、お前は彼女をここへ連れてくるために、彼女と出会ったんだろうな」
「帰るよ」僕はせいうちに言った。
「そうしろ」せいうちは僕の肩に手を置いていった。「その方がいい。お前のために言うけどな、卒業して、仕事しろ。それがいちばんいい」
「うん」
「それにな」せいうちは言いにくそうに顔をしかめた。「あの娘はお前には無理だ」
帰ろう。せいうちの言う通りだ。仕事をして、それから自分の本当にやりたかったことをやろう。小説を一本書き上げる。自分を手なずけるためにではなく、自分にしか生み出せないものを生み出すために。
駅までせいうちが送ってくれた。
「結婚したら、嫁さんを連れて来いよ」
「ああ」
Kにとって僕は、彼女をここへ連れて来るためのものだった。Kは、僕に小説を書かせるために、僕の前に現れたのかもしれない。
僕は列車に乗り込むと、窓際の席に座った。そして、Kが置いて行った推理小説を読み始めた。
やがて、海が見えてきた。僕は小声で『ガール』を歌った。例の「ガール・・・」と歌う時、ジョンがやる、マリファナを吸う音とされる音を真似てみた。しかし、僕にはどうしても、それがすすり泣きにしか聞こえなかった。
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