富嶽点景

  

「野島が死んだ」と電話の向こうで矢口が言った。

「何だ?」

「野島が死んだんだ。昨日、年賀状の喪中欠礼葉書が来た。今年の四月に亡くなったらしい。詳しいことはまるで分らない」

 何を言っていいのか分からない。少しの間、沈黙が続いた。やがて、矢口が切り出す。

「弔問に行かないか?」

「野島の家へか?」

「もちろん。竹山にも連絡する。三人で行こう」

「おれ、卒業以来、野島とは何の連絡も取り合っていないぞ。お前は毎年年賀状をやり取りしているからいいけど、おれみたいなのが一緒に行っていいのか?」

「当たり前だ。お前も野島の友だちだろう?」

 

 私たちは大学の同級生だ。四人とも同じクラスだった。私と矢口と野島は近代文学を、竹山は中古の物語文学を専攻した。卒業後、私と竹山は高校の教員に、矢口は中学校の教員になった。文学部国文学科の学生にとって、専門性を生かすには教員になるしかない。私たちの世代は、ちょうど第二次ベビーブームで生まれた子どもたちが成長して生徒・児童数が急増し、教員の採用が増えた時に就職時期がぶつかった。そうでもなければ、私が教員になどなれるはずがない。

 野島は、学生時代、教職課程を取らずに司書課程を選んだ。教員は向かないと自覚していたのだろう。あわよくば図書館職員に、という目算があったのかもしれないが、卒業後は国家公務員試験に合格し、職業安定所に配属された。

 

「分かった。いつにする?」

「平日はおれも無理だ。どこかの日曜日でどうだ?」

「ちょっと待ってくれ」

 私は傍らの妻に小声で訊いた。

「大学の時の友だちが亡くなった。どこかの日曜日に弔問に行って来てもいいかな?」

「いいよ」と妻は即座に答える。

「ありがとう」と言って、私は受話器に向かう。「大丈夫だ。行くよ」

「そうか、それはよかった。詳しいことは後で打ち合わせよう。また、連絡するよ」と言って、矢口は電話を切った。

 私は受話器を置くと、グラスを取り出し、冷蔵庫の氷を入れてウィスキーを注いだ。

「いつ亡くなったの?」テーブルの向こうで妻が訊く。

「今年の四月だそうだ。矢口の所に年賀状の欠礼葉書が届いたんだ」

「どこまで行くの?」

「神奈川県の平塚、日帰りで行ける」

「泊まらなくていいの?」

「大丈夫だ」

 私は学年主任を務めている。職場にいることが仕事という一面があり、あまり休みは取りたくなかった。また、小学校一年生の下の息子が、学校に適応するのが難しいようだった。連日、学校から来る電話で妻が大分参っている。一晩、家を空けるのも不安だった。

「夜は遅くなるけど、その日のうちに帰る」

「無理しなくてもいいのよ」

「無理はしない」

 

 矢口とは大学時代から仲がよかった。会話の呼吸が合ったし、お互いの趣味嗜好でも共感することが多かった。

小田急線沿線の矢口のアパートに、私はよく遊びに行った。伊藤比呂美の詩の舞台になった駅で降り、女子高の高い塀沿いにしばらく歩くと矢口のアパートがあった。

矢口はいつも部屋にいた。二人でほうじ茶を飲みながら、文学やビートルズの話をした。二人とも酒飲みだったのに、なぜかあの部屋で飲んだことはなかった。夜遅くまで話し込んだ後でも矢口の部屋に泊まったことはない。

「布団が一人分しかないんだ」と矢口は言う。

だから、私はそこから歩いて二十分の所にある、後輩のアパートに行って泊めてもらっていた。

 時には近くに住んでいる竹山を誘って晩飯を食いに行くこともあった。いつも行くのは矢口と竹山のアパートのちょうど真ん中ぐらいにある中華屋で、店の主人が当時の大洋ホエールズの四番打者に似ていたので、我々は「タシロの店」と呼んでいた。矢口はそこでいつもレバニラ炒め定食を、私は豚肉卵炒め定食を食べた。竹山はその時々で違ったものを食べていたような気がする。ああそうだ、この店でも私たちは酒を飲んだことはなかったのだ。

 竹山は一浪しており、ひとつ年上だった。そのせいもあるのだろうか、面倒見がよく、物知りで、大人だった。竹山といるのは心地よかった。

 野島は無口な男だった。誰とも会話をはずませることはない。自分から話しかけることもなかった。でも、彼は閉じた人間ではなかったと思う。私と矢口がバカ話をしている傍らで、いつもにこにこ笑っていた。話しかけたりからかったりすると、「***なのよねえ」などと女言葉で切り返した。それでまた、私たちは笑い合うのだった。

 

「ねえ、ちょっといい?」

テーブルの向こうで妻が話しかける。私は、ふと我に返った。

「何?」

(かず)()のことなんだけど

 和輝は今年小学生になった。落ち着きがなく、学校で度々トラブルを起こす。感情が制御できなくなって泣きわめくこともしばしばあった。その度に学校から連絡があり、最近は妻が学校に迎えに行くことが多くなっていた。

「三木先生に、検査を受けたらどうか、と言われたの」

 三木先生は和輝の担任である。彼女には上の息子、克己も一年の時、担任していただいた。合唱指導ではトップレベルで、彼女が勤める学校は必ずといっていいほど県大会で上位を占めた。細やかな目配りができる力のある教員だと思う。

「和輝くんにはそういう特性がある、って先生が言うんだ」

「そういう特性? ・・・おれも小学生の頃は和輝みたいだったぞ。毎日、担任の先生から電話が来ていたよ」

「和輝くんは小さい時から目を合わすのが苦手だったんじゃないですか、って訊かれた。私、言われて、はっと思った。確かにそうだった」

「それはおれも気づいていたけど、大して気に留めていなかったな」

「私もそうだったよ。でも、先生が言うことには、その特性を持つ子は大抵そうなんだって。・・・私、今まであの子の何を見てきたんだろう・・・」

 妻はうつむいて少し泣いた。そして、顔を上げて私に訊いた。

「ねえ、何の検査をするの?」

「多分、発達の状態を調べる検査だな」と私は答えた。「発達に偏りがあって支援が必要なのかどうかを調べるんだと思う。病院へ行くのか?」

「スクールカウンセラーの山越先生がやってくれるから、学校でできるって。その日のうちに結果が出るから、面談の予定を入れたいって言ってた」

「そうか」

「その日は一緒に行ってくれる?」

「もちろんだよ」

「ありがとう」そう言って妻は立ち上がった。「先に寝るね」

「ああ、おやすみ」

「おやすみなさい。・・・それから、矢口さんとの連絡は携帯にしてね。家の電話が鳴ると、私、先生からだと思って不安になるの」

「そうするよ」

 妻は寝室に行った。私は、ウィスキーを飲み干してストーブを消した。

 

 翌日の晩、私は矢口に携帯で電話をかけた。

「昨日の件だけどな、おれとしては十二月の第三か第四の日曜がいいな」

 色々と確認したところ、年内に空いているのはそこしかなかった。

「うん、じゃあ早い方がいいな。一応、第三日曜日にしておこう。竹山にも連絡しておく。野島の家にも電話するよ」

「よろしく頼む。それとな、これから電話する時は携帯の方にしてくれ」

「分かった。何ならメールにしてもいいぞ。メールなら文字に残るから時間だとか場所だとか、後からでも確認できる」

「そうだな、その方がいいな」

「・・・なあ、野島って面白い奴だったよな」と矢口が言った。「いつもおれたちの近くにいてさ、くだらない話をにこにこ笑って聞いていたな」

「覚えているか? 軽井沢でのゼミ合宿の時」

「覚えているよ。忘れようったって忘れられない。部屋でくつろいでいると野島の姿が見えない。気づいたら部屋のサッシが少し開いている。野島の奴、外のウッドデッキにいたんだ。毛布を肩からかぶって、一人で体育座りをしていた」

「お前がカメラを持って来て野島を撮った。野島は振り返って、にたっと笑ったんだ。あん時、野島、小っちゃな声で『もみじ』を歌ってたんだぞ」

「『もみじ』か?」

「そう、『もみじ』だ」

「『秋の夕日に照る山もみじ』の『もみじ』か?」

「そう、『秋の夕日に照る山もみじ』の『もみじ』だ」

 二人でしばらくの間、笑い合った。

「おれ、あの写真に『野島の小さい秋見つけた』とタイトルをつけて、アルバムに貼ってあるよ」くっくっと喉を鳴らしながら矢口が言った。そして、少し間を取った後、ちょっと真面目な声になってこう続けた。「昨日、アルバムを見た。野島の奴、いつも笑っていたよ。あいつ、いい奴だったよな」

 私も真面目な声でこう答えた。「うん、いい奴だったよ」

寝る間際、矢口からメールが来た。行くのは十二月の第三日曜に決まり。竹山も参加する。野島の母親からは弔問をやんわり断られたが、それでも行こう、出たとこ勝負だ、とあった。

「了解」と私は返信した。望むところだ。私はネットで野島の家に行くための手段を調べた。

 

その日、私は午後から年休を取った。午前中、和輝の検査があり、放課後、その結果を受けての面談がある。私は一旦家に帰り、妻とお茶を飲んだ。妻は押し黙ったままだった。重い時間が流れた。やっと約束の時間が近づき、私たちは車で小学校に向かった。

通されたのはコンピューター室だった。部屋の一角に会議ができるようなスペースがあり、私たちはそこに座った。私と妻が並んで座り、向かい側に担任の三木先生とスクールカウンセラーの山越先生が座った。

お互いぎこちない挨拶を交わした後、三木先生が口を切った。

「今日は、わざわざお越しくださり、ありがとうございます。早速ですが、山越先生から検査結果について、お話をしていただきます」

 山越先生は穏やかなおじいちゃんといった印象を与えた。柔らかな声で、彼は話し始めた。

「午前中、和輝くんの検査をしました。その結果がこれです」

 山越先生はプリントアウトされた紙を私たちの前に置いた。そして、書かれている数字を指さしながら説明を始めた。

「まず、知能指数ですが、一三〇を超えています。これは問題ない。いや、非常に高い数値です」

 それから指先は下に降りる。

「このグラフは、和輝くんの発達の状態をグラフにしたものです。バランスの取れたものは正多角形に近くなります。ところが、和輝くんは極端にいびつな形になっている。つまり、発達に偏りが見られる、ということです」

「和輝は」私は努めて冷静に言う。「発達障害なんですか?」

「一般的な呼び方で言えばそうなります」山越先生は柔らかな声で答える。「しかし、正確に言えば、『発達凸凹』です。どの分野もまるっきり同じように発達する人間はいません。誰しも、進んだ分野と遅れた分野とを併せ持っています。しかし、和輝くんの場合はその差が激しい。・・・病院で受診されることをお勧めします」

「・・・和輝は病気なんですか?」妻が顔をこわばらせて言う。

「いや、病気ではありません」山越先生はきっぱりと答える。「ある特性を持っている、ということです。和輝くんは優れた知能の持ち主だ。理解力、記憶力、分析力などは抜群です。勉強で苦労することはないでしょう。一方で、衝動性が強く感情の抑制が思うようにできない、他人の感情を読むことが苦手だ、ひとつのことに注意が向き他のことがおろそかになる、こだわりが強い、などの特性を持っています。集団生活の中で相当な負荷がかかっているにちがいない。受診されれば、衝動性を抑える薬や不安を抑える薬を処方できます。和輝くんにかかっている負荷を、少しは取り除くことができます」

 妻は黙って話を聞いていた。

「病院は紹介していただけるのですか?」と私は訊いた。

 山越先生はもう一枚の紙を私たちの前に置いた。あらかじめ用意しておいたのだろう。そこにはT市のK病院とU市のA病院とがリストアップされていた。

K病院の方は男性の先生、A病院の方は女性の先生です。家から近い方だとK病院ですか?」

「どうする?」私は妻の顔をのぞいた。妻は私の顔を見た。

「病院に行ってみようよ。こういうことは専門家の話を聞いた方がいい」

「・・・そうだね」と妻は小さな声で答えた。

A病院だったら、お母さんの実家に近いよ。そっちにする?」

 妻は小さくうなずいた。

A病院にします」と私は山越先生に言った。

「では、私の方から連絡します。受診日が決まったら、三木先生の方からご連絡しますので、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

「・・・育て方がいけなかったんでしょうか?」妻が思いつめたように訊いた。

「お母さん、そんなことはありません。この特性は、しつけとは関係がありません。脳の機能の問題です。だから、お母さんが自分を責める必要は全くありません」山越先生は教え諭すように答えた。そうして、こう付け加えた。「お母さん、和輝くんは、ある意味、特別なお子さんなのです」

「お母さん」三木先生が妻に声を掛ける。「私どもは全力で和輝くんを支援してまいります。大丈夫です。できることを少しずつ、一緒にやっていきましょう」

 面談を終えて、私たちは外へ出た。外は風が強く、ひどく寒かった。

「私は、ふつうに育ってくれれば、それでよかったんだけどな」車の中で、妻がぽつりと言った。

 

 矢口からメールが来て、最終的な段取りが決まった。岐阜から矢口が車で平塚に向かう。途中、浜松で竹山を拾って来る。私は野島の家の最寄りの駅で待つ。 

 了解した旨を返信すると、また、こんなメールが来た。

「次の日はどうにか年休を取れた。相当大変だったけど。本厚木の駅前のビジネスホテルの予約を取った。弔問が終わったら、三人で厚木の名物、焼ホルモンをつつきながら、野島を偲ぼう。ホテルにはまだ空きがあったが、君はどうする?」

 私はこう返信した。

「おれはその日のうちに帰るよ。本厚木からロマンスカーで新宿まで行ける。ぎりぎりまで付き合うよ」

 私はウィスキーのロックを作り、学生時代のアルバムを引っ張り出して来て眺めた。既に妻も子どもたちも寝床に入った。夜の冷気が部屋を包む。私はひざ掛けにしている毛布を肩から羽織った。あの日の野島かよ、と私は苦く笑った。

 クラスコンパ、ゼミ合宿、卒業旅行・・・、矢口が言うように、写真の中の野島はいつも笑っていた。野島だけではない。皆、屈託なく笑っている。その時はそれなりに苦労もあったのだろうが、その後社会の本格的な荒波にもまれることにも気づかず、皆、能天気に笑っていた。

 ゼミ合宿の、野島の毛布をかぶった写真もあった。ゼミ合宿の打ち上げコンパの集合写真では、野島と先生が肩を組んで笑っていた。

「なあ野島、何があったんだ?」私は写真の中の野島に語りかけた。「おれは、お前を忘れてはいなかったが、卒業してから今まで、大して気にも留めていなかった。そんなおれに、お前を悼む資格があるのか? お前を悼んでいいのか?」

「いいんだ」矢口の声が聞こえた。「お前は野島の友だちだろう?」

 ウィスキーの酔いが回ったみたいだ。野島の笑顔が霞んできた。

 

 十二月の第三日曜日、正午近く、私はJR相模線М駅に降り立った。

東京駅で東海道線に乗った。川崎、横浜を過ぎると家は多いが風景がやさしくなってくる。茅ケ崎で降り、相模線に乗り換える。電化はされているものの、単線の四両編成、М駅は無人駅だった。

 近くで昼食をとろうと思ったが、ラーメン屋ひとつない。コンビニがあったので、おにぎりを買い、駅のベンチで食べた。矢口に電話をすると、もう少しで着く、と言う。通り沿いに出て待つことにする。

 幸いによく晴れた。きりっとした冬晴れだ。空気は冷たいが、風がないので、かえって心地よい。

三十分ほど待って、黒のホンダ・インサイトが目の前に止まった。素早く後部座席に乗りこむ。運転席には矢口、助手席には竹山がいた。

「ご苦労さん」

「おう、久し振り」

「元気そうで何より」

 簡単な挨拶の言葉が行き交う。

「野島の住所はナビに入れてある。ここから二十分も走れば着くだろう」と正面を向きながら矢口が言った。

「詳しいことは分かったか?」

「竹山が詳しいよ」

「・・・長いこと鬱病を患っていたらしいよ」と竹山が言った。「おれさ、大学出てすぐ熱海の高校に赴任したろう。平塚はそう遠くないから、野島とはたまに会っていたんだ。あいつ、昔からコミュニケーション能力には難があったよな。ちょっと気になっていたんだよ」

「世間から見れば浮世離れしている文学部の学生の中でも、野島の浮世離れは群を抜いていたからなあ」と矢口が口を挟んだ。

 矢口は四年の時、就職活動をしたことがある。就職課へ行って求人票を見せてもらうと、募集学部の欄には、文学部の所に悉く斜線が引いてあったそうだ。「おれは、いかに文学部が世間に相手にされていないか、つくづく思い知らされたよ」と、彼はアパートでほうじ茶を飲みながら、私にそうぼやいてみせた。

「その野島が職安で人の職探しの世話なんかできるのかよ、とおれは思ったね」

「でさ、おれのゼミの皆川も誘って、野島と一緒にテニスなんかやっていたんだよ。皆川の家は伊勢原だからさ、野島の家も近いんだ。そのうち、おれも結婚して浜松に移って家を建てた。おいそれと平塚の方にも来られなくなったから、後は皆川に託したんだ。二人は気が合ったみたいで、皆川も何くれとなく野島の面倒を見ていたよ。おれもちょくちょく野島とは電話で話していた」

「そうか」

 やっぱり竹山は大人だな、と私は思った。大人でやさしい。あの頃のままだ。

「仕事はつらい、って言っていたなあ」と竹山は言った。「ほら、ああいう所って、追い詰められた人が相談に来るだろ? ちょっとしたことでクレームが来るんだ。野島は窓口対応が苦手でクレームが多かったらしい。働き出してから求人票の記載より給料が少ないって怒鳴り込んできた奴もいたんだって。そんなの向こうの会社との問題だし、職安よりも労基署にするべき話だよな」竹山は続ける。「同僚もクレームの多い野島を疎んじるようになった。まあ多かれ少なかれ彼らもストレスがたまっている。標的が必要だったんだな。反撃しない、する恐れのない人間が、野島だったというわけさ」

 窓口で怒鳴りつけられている野島を思い浮かべた。同僚にあからさまに悪口を言われている野島を思い浮かべた。野島のことだ、それに対し、何も言えずにいたのだろう。胸が痛んだ。

「鬱病になって、休職して、仕事を辞めた。さらに統合失調症になって、大量の薬が処方された。皆川は大手のドラッグストアの店長をやっていて登録販売者の資格を持っているから、薬についての知識がある。飲まなくていい薬を選んで捨ててやっていたそうだよ」

「・・・まさか自殺じゃないよな」と訊くと、

「そうではないと聞いている」と竹山は答えた。

「何年か前、おれの年賀状の宛名が手書きの時があったろう?」信号待ちの時に、矢口が言った。

「覚えてないな。そんなこと、気にもしないよ」

「普通そうだよな」矢口は再び車を発進させた。「たまたまその年はプリンターが故障してそうなったんだ。でも、野島はその時、『矢口が自分のことを住所録から削除した』と言って、ひどく怒ったんだって。こっちへ向かう道々で竹山に聞いたよ」

「おれのところに電話してきた」竹山が言った。「泣きながら『あいつはひどい』と言うんだ。おれがいくら『そんなことはないよ』と言っても聞く耳を持たなかった」

「こうして毎年年賀状を出しているんだから、野島と絶交しようなんてするはずがないじゃないか」矢口は少し怒ったように言った。

 相模川を渡ると平塚市だ。カーナビを見ながら、矢口は慎重に車を進める。

「この辺だな」

 矢口は閉店した酒屋の駐車場に車を止めた。そして、「ちょっと見てくる」と言って車を降りた。

 矢口は付近の家の何軒かの表札を見て回る。やがて、車に戻って来た。

「そこの、はす向かいの家だ」

 そこには、古びた平屋の家があった。車一台止めるスペースがある。矢口はそこまで車を移動させた。

「よし、行こう」

 我々は車を降りた。矢口はトランクから菓子折りを取り出す。

 矢口は緊張した面持ちで玄関のブザーを押した。中で物音がして、玄関が開いた。野島の母親と思われる老女が現れる。

「岐阜から来ました、野島くんの大学の友人の矢口と申します。お電話でお話しましたが、どうしてもお線香をあげさせていただきたく参りました」

「浜松から参りました竹山です。ご迷惑かもしれませんが、ぜひ、お線香をあげさせてください」

「茨城から参りました山口です」私はそう言って頭を下げた。

 老女は少し困ったような表情を浮かべたが、こう言ってくれた。

「孝一の母です。わざわざお越しくださり申し訳ございません。どうぞお上がりください」

 私たちは玄関で靴を脱いだ。古い家だが、よく手入れが行き届いている。この家で野島は生まれ育ち、この家から大学に通い、職場に通ったのだ。

私たちは仏壇の前に案内された。まず矢口が菓子折りを置き、その上に香料を置いた。それから、ろうそくに火をつけ、線香をあげた。固い顔で手を合わせる。竹山がそれに続く。私は最後に線香をあげ、香料を重ねて置いた。仏壇には真新しい位牌があって、その脇に野島の遺影があった。学生時代よりは少し太って、立派なおじさんになっている。相変わらず黒縁の眼鏡をかけ、あの頃と同じように控えめな笑みを浮かべていた。手を合わせ一礼して振り返ると、皆、既に炬燵に入っている。私も炬燵に入った。炬燵には野島の母親と私たち三人が座った。隣の洋間の椅子には、野島の父親が座っている。仕切りのガラス戸は開け放たれていた。

 野島の母親がお茶を入れてくれる。そして、柿を剝きながら、これまでのことを聞かせてくれた。

 野島が鬱病になったのは、ちょうど十年前、四十歳の時だった。職場でうまくいっていなかったのは薄々感じていたが、それほどだったとは思わなかった。二年間休職して、結局、復帰できなかった。休職中に統合失調症を発症して退職する。主治医からは大量の薬が処方された。飲んでいるうちに内臓に不調をきたした。それを抑えるために、また、別の薬が処方される。薬は加速度的に増えた。障碍者向けのパソコン教室に通い始めたものの、それも続かなかった。今年の三月、体調を崩し入院。四月一日に永眠した。死因は多臓器不全だった。おそらく長年にわたる薬の過剰摂取によるものだったのだろう。

 私たちは野島の母親が剝いてくれた柿を食べながら、その話を聞いた。柿はちょっと柔らかく、とても甘かった。

「孝一は、皆さんの前ではどんな子でしたか?」と野島の母親が訊いた。

「いつも笑っていました」矢口が答える。「ぼくたちがバカな話をしている近くで、いつもにこにこ笑っていました」

「面白い奴でしたよ。野島くんと話すのは楽しかった」と私は言った。

「私は卒業してから、何回か野島くんとテニスをしました」と竹山が言った。「私と同じゼミだった皆川くんも誘って三人で遊びました。もっともっと会っていればよかった、と思います」

「皆川さんにはとてもお世話になりました。孝一の薬の量を見て心配して、飲まなくてもいい薬を選り分けてくださいました」

 隣の洋間で、野島の父親が黙って私たちの話を聞いている。口元には笑みが浮かぶ。野島は父親似なんだな、と私は思った。

「・・・あの子の姉が同じ役所に勤めていまして、もちろん、部署は違うのですが。それで、孝一のことをいつも『職場の皆に迷惑をかけて』と言って責めていました。今でも『孝一の弱さが許せない』と・・・」

そして、野島の母親はこう続けた。「あの子はずっと人間関係を築くのは苦手でした。私たちの育て方がいけなかったんでしょうかねえ」

 そんなことはありません、と私は大声で叫びたかった。

 育て方の問題ではない。人間には各々持てるものと持たざるものとがある。私たちは自分の手にあるもので社会に向き合っていく。野島もそうだったし、私も、矢口も竹山もそうやってきた。おそらく、和輝もそうしていくのだろう。親がどうお膳立てしようと、子どもは自分で自分のやり方でやっていくしかないのだ。

「私は」矢口が静かに口を切った。「野島くんが亡くなったと聞いて、何を置いてもここへ来なければならないと思いました。野島くんには、私にそうさせずにはおかない何かがありました。・・・確かに、野島くんは世間的には弱かったのかもしれない。でも、弱いだけの人ではなかったと思います」

 野島の母親は黙ってそれを聞いていたが、やがて気を取り直したように言った。

「よろしかったら、お墓に参ってはいただけませんか? ここからすぐ歩いて行けます」

「いいんですか?」と矢口が言った。

「こちらからお願いしているんですよ」と彼女は笑みを浮かべた。

 それから、私たちは野島の母親の案内で、墓所へ向かった。通りから路地に入り真っ直ぐに行く。家と家との隙間から、正面に富士が見えた。茨城から見える富士よりも、ずっと大きい。私はしばし富士に見惚れた。

歩いて十分もしないうちに寺の裏門に着いた。

「ここなんですよ」野島の母親は真新しい墓石を示した。御影石の黒く磨かれた壁面に、野島の戒名が端正な字で刻まれている。「孤岳院****居士」。

「『孤岳院』というのは、富士山に因んだ、と住職さんはおっしゃいました。それから独身だったという意味も込めてあると・・・」

「お母さん」と矢口は言った「野島くんは、孤独ではありませんでした。決して」

 きっぱりとした口調だった。

「そうですね」何度もうなずきながら野島の母親が答えた。

 私たちは墓石に向かって手を合わせた。

「野島、色々大変だったな。安らかに眠れよ」私は野島に語りかけた。妻と息子の顔が浮かぶ。「おれはまだ、こっちで頑張らなきゃならないみたいだ」

 私たちは野島の家に戻り、そのまま辞去することにした。野島の父親も家の前まで出て来て、私たちを見送ってくださった。

 車に乗り込む時、「また来てくださいね」と野島の母親が言った。

「はい」と私たちは答えた。

 エンジンをかけて矢口が言った。

「よし、本厚木へ向かおう。本厚木でホルモンをつつきながら野島を偲ぼう。あいつについて話すことが、あいつへのいちばんの供養になるんだ」

「国道をまっすぐ北上すれば厚木に出るよ」と竹山が言った。

 

 車はやがて住宅街を抜け、田園地帯をひた走る。左側にずっと富士が見える。日はもう西に傾いていた。よく晴れた空にすっくと立った富士は、冬の陽射しを逆光気味に受けて、神々しく見える。

私は、富士を背にしてぽつんと佇む野島の姿を思い浮かべる。野島はこっちを見て、あの頃のように笑っている。その瞳は何か言いたげだ。しかし、野島の声はいっこうに聞こえてこない。野島の声を聞く機会は永遠に失われてしまった。

「野島」私は富士を見ながら小さな声で言った。「おれはこれから富士を見たら、お前を思い出すことにするよ」

 いいだろ? だっておれはお前の友だちだもんな。

コメント

このブログの人気の投稿

完璧な9

ひとりぼっちのあいつ