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富嶽点景

   「野島が死んだ」と電話の向こうで矢口が言った。 「何だ?」 「野島が死んだんだ。昨日、年賀状の喪中欠礼葉書が来た。今年の四月に亡くなったらしい。詳しいことはまるで分らない」  何を言っていいのか分からない。少しの間、沈黙が続いた。やがて、矢口が切り出す。 「弔問に行かないか?」 「野島の家へか?」 「もちろん。竹山にも連絡する。三人で行こう」 「おれ、卒業以来、野島とは何の連絡も取り合っていないぞ。お前は毎年年賀状をやり取りしているからいいけど、おれみたいなのが一緒に行っていいのか?」 「当たり前だ。お前も野島の友だちだろう?」    私たちは大学の同級生だ。四人とも同じクラスだった。私と矢口と野島は近代文学を、竹山は中古の物語文学を専攻した。卒業後、私と竹山は高校の教員に、矢口は中学校の教員になった。文学部国文学科の学生にとって、専門性を生かすには教員になるしかない。私たちの世代は、ちょうど第二次ベビーブームで生まれた子どもたちが成長して生徒・児童数が急増し、教員の採用が増えた時に就職時期がぶつかった。そうでもなければ、私が教員になどなれるはずがない。  野島は、学生時代、教職課程を取らずに司書課程を選んだ。教員は向かないと自覚していたのだろう。あわよくば図書館職員に、という目算があったのかもしれないが、卒業後は国家公務員試験に合格し、職業安定所に配属された。   「分かった。いつにする?」 「平日はおれも無理だ。どこかの日曜日でどうだ?」 「ちょっと待ってくれ」  私は傍らの妻に小声で訊いた。 「大学の時の友だちが亡くなった。どこかの日曜日に弔問に行って来てもいいかな?」 「いいよ」と妻は即座に答える。 「ありがとう」と言って、私は受話器に向かう。「大丈夫だ。行くよ」 「そうか、それはよかった。詳しいことは後で打ち合わせよう。また、連絡するよ」と言って、矢口は電話を切った。  私は受話器を置くと、グラスを取り出し、冷蔵庫の氷を入れてウィスキーを注いだ。 「いつ亡くなったの?」テーブルの向こうで妻が訊く。 「今年の四月だそうだ。矢口の所に年賀状の欠礼葉書が届いたんだ」 「どこまで行くの?」 「神奈川県の平塚、日帰りで行ける」 「泊まらなくていいの?」

ひとりぼっちのあいつ

  高校の同級生のことについて話をしよう。 彼はいつもひとりだった。少し離れた所から通ってきており、彼と同じ中学の出身者はいなかった。   僕が住む地域には、三つの普通高校と、二つの実業高校があった。  普通高校の一つは女子高で、一つはその他の学校には成績的に行けない層の生徒が入る学校だった。僕が通っていたのは、もう一つの普通高校である。  隣の地域に、県を代表する進学校があり、地区の秀才は、皆そこへ行く。僕が通った学校は、それほどでもない生徒が行く。悪く言えば中途半端だが、よく言えば程がよい。そんな学校だ。  創立は明治の末で、戦前までは農学校だった。戦後、新制高校となるにあたり、普通科を創設した。歴史だけは古い。当時、県内でも珍しい男子校で、一年生の教室は、戦前からある木造二階建ての校舎、一棟があてがわれていた。    ところで、君は人を殴ったことがあるか? — 唐突な問いだが、これはこの話の主題につながっているのだ。  僕は、ある。  僕は中学時代、野球部に所属していた。これが、当時としては珍しくない暴力的な組織だった。  入部して少し経ち、五月の連休が終わった頃、新入生は初めて先輩に殴られる。この制裁を、僕たちは「焼き入れ」と呼んでいた。  その日、一年生は何の説明もされず、部室の前に整列させられる。そして、一人ずつ部室の中に入れられる。  部室には一人分座れるスペースに、バットが敷き詰めてある。  一年生は、その上に正座することを命じられる。その際、膝の裏側、腿と脛の間にバットを一本、挟まれる。床に敷かれたバットが向う脛にごりごりと当たり、挟んだバットが腿と脛を襲う。  そうして、長い説教を受けた後、二年生の先輩一人一人からビンタをもらう。  小学生の時「**ちゃん」と呼んでいた幼馴染が「**先輩」となり、僕にビンタをする。ショックだったね。子どもを社会の上下関係に組み込む、そのための言わば通過儀礼だったのだろう。  一年生はその後、日々「焼き入れ」の恐怖と戦うことになる。それが部の統率のために有効に働いたのは言うまでもない。  そして、彼らが最後に「焼き入れ」をされるのは、二年生に上がって少し経った五月の連休の頃だ。この最後の「焼き入れ」の翌日、彼らは新入生に「焼き入れ」を行う。

完璧な9

    家に帰ると幽霊がいた。  どうして僕の部屋にいたのかは知らない。僕が、仕事を終えて帰った時、幽霊は当然のように部屋の隅に膝を抱えて座っていた。 「君は誰だ?どうしてここにいるんだ?」と僕が声を掛けると、彼はびっくりした顔でこう言った。 「君には僕が見えるのか?」 「見える」  見える。確かに見える。しかし、どこか影は薄い。何だか向こうが透けて見えるような感じだった。 「たまにいるらしいんだよなあ、こういう人が」やれやれといった感じで幽霊は言った。そして、自分から幽霊だ、と言った。「生きているうちは名前もあったけど、今は必要ないよね、だけど、正真正銘の幽霊さ」 「それがどうして僕の部屋にいるんだ?」 「習慣なんだ。やっぱり誰かがそばにいると落ち着くんだよ。気に入った部屋で過ごし、飽きたらまた別の部屋へ行く」 「女の部屋の方がいいだろう?」 「初めはそうだったさ。でも、かえって駄目だ。ちっとも落ち着かない」 「でも、それはフェアじゃないな。君は相手が見える。相手は君が見えない。君は相手を逐一観察できるが、相手はそれに気づかない。どう見てもフェアじゃない」 「悪かった」幽霊はがっかりして言った。「出て行くよ」 「その必要はない」僕は言った。「幽霊と同居できるなんて、めったにない機会だ。それに、この場合は対等だよ。僕は君が見えるし、話も出来る。好きなだけいていいよ」 「ありがたい」幽霊はほっとしたように言った。「実は死んでからこっち、人と喋ったことがない。どうやら僕は霊感がないみたいで、幽霊仲間もいないんだ」 「ただ、同居するにはひとつ条件がある」 「何だ?」幽霊はちょっと身構えた。 「取り憑いたりしないでくれ」 「大丈夫さ」幽霊は笑って言った。「恨みがあって出てきた訳じゃない。僕はただ漂っているだけさ」  幽霊は趣味の悪い茶色のセーターに、グレーのズボンという出で立ちだった。何でも、死んだ時に身に付けていたものだという。 「君も気をつけた方がいい」幽霊が不満そうに言った。「死んだら着替えが出来ない。いつ死んでもいいように、納得のいく服装をしていた方がいい」  幽霊の話によると、彼は一九七〇年代の初頭に交通事故で死んだ。友達の運転するコロナに乗って江ノ島へ行く途中、トラックと正面衝突