牛鬼

 女が机にうつ伏して居眠りをしている。

私はその女の横顔を見ていた。

窓から日差しが差し込んでいる。今日は小春日和で暖かい。

職場の人たちは各々立ち働いている。女だけが、そこで眠り続けている。こんこんと。そこだけ別の時間が流れているように。

 

私は女に追い詰められていた。

この数ヶ月というもの、私の自信は損なわれ、私の人間としての力は根こそぎ奪われていった。

どうしてこんなことになったのか、よくは分からない。

 

私はこの女の仕事上の上司である。

私はこの春、この職場に赴任してきた。女はここの古株のメンバーだった。女は、これまで仕えた上司が、いかに有能であったかを、繰り返し私に言った。

彼らの中には見事に栄達を果たした者もいれば、地位を得てはいないものの実力者として隠然と影響力を持つ者もいた。

女は職業人としての力があり、人脈があった。豊満な四肢と明朗な雰囲気を持っていた。人当たりの良さと押しの強さを持っていた。細やかな心配りと人を動かす影響力を持っていた。

女は、ある時は周到に、ある時は半ば強引に、職場を自分のペースに引き込んだ。

私も女を頼りにし、女の要望を最大限聞き容れながら仕事を進めた。女は自他ともにこの職場のエースと認められていたし、女と良好な関係を持たなければこの職場での円滑な仕事はできそうもなかった。

 

女は自らが有能な人間を見分ける判定ができると自認していた。自分に認められることは有能であることを意味していると女は固く信じ、またそれを私に繰り返し言った。女は職場の人間を判定し、それによって扱いを変えた。ある時は巧妙に、ある時はあからさまに。そしてその選択はある意味見事だった。女が攻撃する対象はいかにも無能に見えた。

いつの間にか私は女に認められなければ自分は無能であると、どこかで信じ込まされていた。

 

潮目が突然変わった。

女は私の能力に見切りをつけたらしい。心当たりが無くはなかった。何度か仕事の進め方で食い違いがあったのは事実だ。女は何より感性を重んじているようだったが、私はそれを形にするために筋道をつける必要があった。いずれにしても、私にとっては決定的なものではなく、お互い丁寧にやり取りをしていけば、問題なく物事は進んでいくはずだった。

しかし、女にとっては決定的なものだったかもしれない。あるいはこの上司は無力化しておいた方がいいと判断したのかもしれない。女はわずかに、だが確かに私に対する態度を変えた。

 

まず、女から無駄話を持ち掛けることはなくなった。事務的な事だけを事務的な調子で述べるだけになった。

話にはわずかずつ肝心な部分が省略された。私が確認のため聞き返すと、さも理解力がないといったふうに驚きの表情を浮かべた。そして周囲には気が付かれないように舌打ちをした。

仕事の報告はしなくなった。私の知らないうちに物事が進んでいった。

女が職場に持ち込むお菓子やコーヒーなども、私には配られなかった。ほんのちょっとしたときに催される飲み会にも、誘われることがなくなった。私のかすかに耳に届く絶妙な音量で、女は時間と店を仲間内で確認し合った。

 

ひとつひとつを見れば、どれも取るに足らないことだった。しかし、日常的にそれが積み重なると、それはきついものだった。声を荒げることもできない。周囲に気づかれることもない。女に理由を質すこともできなかった。

私は次第に覇気をなくしていった。背中が丸くなり、声は小さくなっていった。

私は四六時中、女から、あなたは無能だと言われているような気がした。

人はこうして鬱病になって行くのだな、と私は他人のことのように思った。

 

私は寝息を立てている女の横顔を見ていた。髪を染め、派手な化粧をしている横顔である。

私には女を憎む気持ちはなかった。訳もなく、人間というものは悲しいものだなと思った。

 

ふと見ると女の耳から何か虫のようなものが出てきた。

初め私はそれを蜘蛛かと思った。細い鍵のような八本の足が見て取れたからだ。しかしその中央にあるものは見慣れた蜘蛛の胴体ではなかった。鬼にも牛にも似た角を生やした顔がそこにあった。

私は恐懼のうちにも声を上げることもできず、固唾をのんで事の成り行きを見守った。

それは外に出ると、幾分体を大きくした。そして、私の方をじっと見つめた。

― お前は私には勝てない。

私の意識に直接そんな言葉が入ってきた。

そして、それはまた女の耳の中に入って行った。

 

私は思わず周囲を見回した。誰も何も気づいていないようだった。

私はため息をつき、小さな声でこう呟いた。

「あれは牛鬼だったか。それでは敵う訳がない」

 

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