ア・デイ・イン・ザ・ライフ

 携帯電話もインターネットもなかった頃の話である。

 

大学を出てすぐ、私はある田舎の中学校の期限付講師の職を得た。出たのは国文科だが、英語の授業を受け持った。鬱病で療養休暇に入った若い教諭の代わりだった。

 楽しい日々だったが、終わりは突然やって来た。

 忘年会の宴席で、私は教頭に声を掛けられた。そのまま廊下に出て、立ち話になった。

「や、山口くん」教頭は言った。彼は言いにくい話の時は吃音が出た。「じ、実は君には十二月いっぱいでうちを辞めてもらう」

「どういうことですか?」

「Fさんが復帰するんだ」鬱病で休んでいる教諭の名前を挙げて、教頭は言った。「こ、これは、き、決まったことなんだ」

 どうしようもない。受け入れざるを得なかった。分かりました、とだけ言って私はその場を離れた。

「教頭に何を言われたの?」

席に戻ると、学年主任に訊かれた。私は教頭に言われたままを話した。

「何なの? ここで言うべき話じゃないでしょ」

 私もそう思った。憤慨してくれた人がいただけありがたかった。

 私はその晩、べろべろに酔っ払った。

週明けの朝、私は校長室に呼ばれた。校長は椅子に座ったままこう言った。

「教頭さんが言ったとおり、そういうことになったから」

 それだけだった。私は一礼して校長室を出た。

 さすがに気が引けたのだろう。二学期の終業式の日に離任式と送別会を開いてくれた。生徒から別れの言葉をもらい、送別会ではしたたかに飲んだ。

 幸いなことに、夏に受けた県の教員採用試験で奇跡的に内定が出ていた。四月からの仕事は決まっている。降ってわいたように、三か月間の自由な時間ができたことになった。意外なことに退職金も出た。せっかくだから、何日か旅行に行くことにした。

 

 正月明け、中学校の同窓会があった。隣の市の駅前にあるホテルが会場で、昼過ぎから行われた。私の中学校は全部で二クラス、七十人しか同級生はいない。そのうちの五十人近くが集まった。

 幹事の挨拶、担任の先生からのお言葉、そして乾杯。型どおりに会は始まった。酒が回り出した頃、一人ずつ近況報告があり、私は仕事を辞めたこと、これから旅行をしようと思う、といったことを喋った。

 円卓の隣はキヨミだった。同じ小学校に通った幼なじみである。皆の近況報告が終わると、キヨミはビールを注いできた。

「ありがとう。キヨミは飲まないの?」

「私、車だから。それに五時には家に帰らなくちゃ」

「忙しいんだね」

「そうじゃないの。門限なのよ」

「あれ?お前、結婚したんじゃなかった?」

「そう。旦那が厳しいの。今日もやっと来れたんだから」

「キヨミは愛されているんだもんね」一つ隣の洋子が口を挟んだ。

「そうかなあ」

「優しい旦那じゃん。キヨミが可愛くてしょうがないのよ。羨ましいなあ」

 そのうち、洋子は先生に注いで来る、と言って席を立った。

 キヨミは私に顔を近づけて言った。

「かっちゃん、旅行っていつから行くの?」

「明後日から行こうと思っているんだ。予約なんかとっていない、行き当たりばったりの旅行だけど」

「ふーん」

キヨミはちょっと何か考えているようだったが、やがて意を決したようにこう言った。

「じゃあさ、明後日の午前十一時に上野の西郷さんの所にいて。旅行前にちょっと時間を頂戴」

「いいけど、大丈夫か? お前んとこ、旦那が厳しいんだろう?」

「大丈夫よ。じゃ、私も先生の所へ注ぎに行って来るわ」

 そう言って、キヨミは席を立って行った。

 それから私は男友達と飲んだ。一次会が終わり、ホテルから出た時には、もうキヨミはいなかった。私たちはその後二次会になだれ込み、家に帰ったのは夜中の一時を過ぎていた。

 

 キヨミの言葉は、私の記憶に残ってはいたが、何だか夢で見たような気がしていた。それでも、私はその日、上野の西郷隆盛像の前でキヨミを待った。

 待ちながら、私はキヨミのことを考えた。

 

私の小学校は一クラスしかなかったから、当然、クラス替えはない。入学以来、ほぼメンバーは変わらない。一人が転校していき、二人転校してきた。異動はそれだけだった。

四年生の時だったか、ある時、小学校の学級会でお楽しみ会をやろうという企画が持ち上がった。だいたい学期に一回ぐらいお楽しみ会はあって、ちょっとしたおやつが出て、何人かで組んでの出し物がある。私たちにとっては、文字通り楽しみな行事の一つだった。

いつやろうか、という話になった時、クラスのボスだった敏明が、突如、おふざけモードに入った。「夏休み最後の日」とか、「日曜日まる一日」とか、次々と実現不可能な日程を提案した。私は翌週の土曜日の三、四時間目(当時は土曜日は半日学校だった)を主張したが、決を採ると、皆は敏明の案に手を挙げた。クラス全体が、敏明のおふざけモードに同調したのだ。議長は困った顔をして、何度か採決をやり直した。しかし、私の案に挙手するのは、私だけだった。先生は何も言わなかった。多分、生徒が自分たちで軌道を修正するのを待っていたのだろう。

ただ、私は孤独だった。まっとうな意見が通らないことが、つらかった。何度目かの採決から、私の案に賛成してくれる者が、何人か出るようになった。それでも多数決では敏明の案が圧倒的に優勢だった。

「今日はここまでにしましょう」と先生は言った。「また日を改めて話し合いましょう。それまで、皆さん、落ち着いて考えてみてくださいね」

 放課になって、皆それぞれ家路についた。私は悔しかった。俯きながら、涙をこらえて、自分の足元を見ながら歩いた。

 その時、キヨミが後ろから声を掛けてきた。

「かっちゃん、大丈夫だよ。皆、分かってるよ」

 キヨミは確か、私の案に真っ先に手を挙げてくれたのだ。

「それにしても、今日の敏明はひどかったなあ」キヨミはこう言うと、私の手を握って続けた。「大丈夫だよ。敏明も今頃、やり過ぎたと思っているし、皆も馬鹿なことしたなあと思っているよ」

 その後の記憶はない。私が何と答えたか、お楽しみ会がどうなったか、もう忘却の彼方に消え去っている。

 

「かっちゃん、待った?」

 キヨミの声で我に返った。キヨミはデニムのミニに黒のタイツを履いて、紺のダッフルコートを着て、私の前に立っていた。小さくてころころしていて童顔で、中学時代の面影を強く残しているが、しっかり化粧をしているし、どこか主婦らしいやつれが見える。

「少しな。で、今日は何なんだよ」

「一昨日言った通りだよ。旅行の前に少し時間を頂戴。迷惑かけないからさ」キヨミはくりくりした目を、私にまっすぐ向けて言った。

「まあ俺の方は時間はたっぷりあるから、かまわないけど」

「じゃあ、まずご飯食べようよ」

「何が食べたい?」

「私、オムライスがいいな」

 私はすぐ近くのレストラン聚楽を選んだ。ここなら和食、洋食、中華、ほとんどカバーできる。

私たちは上野駅が見える窓際のテーブル席に、向かい合わせに座った。キヨミはオムライスを注文し、私はナポリタンと瓶ビールを頼んだ。

まずビールと、つまみに塩豆が来た。コップが二つ来たので、キヨミの方にもビールを注ぐ。

「この前は飲まなかったけど、大丈夫?」

「大丈夫。私、お酒は飲めるよ」

「じゃ、乾杯だ」

 コップをかちんと合わせてビールを飲む。きりっと冷えて旨い。

 やがてキヨミの前に紡錘形のオムライスと、私の前にスパゲティー・ナポリタンが来た。

「両方、ケチャップだね」とキヨミが笑う。

「ほんとだ」と私も笑った。

「いいなあ、普通のオムライスだ。こういうのが美味しいんだよね」キヨミはスプーンでケチャップをのばしてから一口食べて言う。「I市のデパートでお母ちゃんと食べたオムライスと同じだ」

 

キヨミは母一人子一人で育った。小学五年の時、キヨミの母親が再婚して、すぐに妹が生まれた。義理の父親とキヨミとはうまくいかなかったらしい。中学を卒業すると、キヨミは家を出て、伯母の経営する縫製工場に住み込みで働き、私が通っていた高校の定時制に通った。

 高校の頃、下校の時、高校の坂道で、登校してくるキヨミとたまにすれちがった。たいてい私は友人と一緒で、キヨミはひとりだった。私たちは目礼を交わすだけで、立ち止まって話をすることもなかった。

 高校を出てすぐ、見合いをして嫁に行ったという噂を聞いた。旦那は大分年が離れているという。それからずっと、キヨミの話は聞かなかった。この間の同窓会で、本当に久しぶりに会ったのだった。

 

 私はナポリタンでビールを飲んだ。玉ねぎ、ピーマン、ウィンナーソーセージを炒めて絡めた昔ながらのナポリタン。これがビールによく合う。

「かっちゃん、ありがとね。久し振りにお母ちゃんのこと、思い出したよ」

「実家には帰らないの?」

「うん、あの人がいるし、お母ちゃんも気兼ねするしね」

「嫌なこと訊いたかな。ごめんな」

「いいよ。もう私の中では終わったことなんだ」

 少しの間沈黙が流れた。

「あのさ」キヨミが言った。「これから、かっちゃんとデートしていい?」

「お前、旦那がいるだろ?」

「逃げてきた」

「え?」

「逃げてきたの。私、もうあの家にはいられない」キヨミは覚悟を決めたように言った。「大丈夫。連れて逃げてなんて言わないよ。ただ、今日一日だけ一緒にいて。絶対に迷惑はかけないから」

 私は黙ってキヨミの顔を見た。冬の低い日差しが大きな窓ガラスから差し込んで、キヨミの顔を照らしていた。

「大丈夫だよ、好きになってなんて言わないからさ」とキヨミは言った。「それに。かっちゃんは圭子ちゃんが好きだったもんね」

「なんだよ、それ」

「皆、知ってたよ。かっちゃん、圭子ちゃんの前だと態度がまるで違ってたもん」

「そんな昔のこと、忘れたよ」私は苦笑いをしながら言った。「で、どこへ行きたいんだ?」

「いいの?」

「しょうがないだろ。お前、覚悟決めてきたみたいだし。他の選択肢は許されそうにない」

「さすが、かっちゃん、やさしいね。でも、かかったお金は私が持つよ。私が頼んだんだから」

「いいよ。じゃあ、せめて割り勘にしよう。旅行するつもりだから、お金は持ってるよ」

「でも、旅行のお金が足りなくなっちゃうよ」

「大丈夫だ。けっこう多めに持って来たからな。・・・で、どこへ行きたいんだ?」

「東京タワーへ行こう」

「分かった。まっすぐ電車で行くのも芸がないから、一回、浅草に出てみないか?」

「いいよ。かっちゃんに任せるよ」

 それから、私たちは地下鉄に乗って、浅草に出た。とりあえず観音様にお参りしようということで、雷門から仲見世を歩く。平日にもかかわらず、けっこうな人が歩いていた。

「揚げ饅頭、美味しそうだな。私、買って来る」

「オムライス食ったばかりだろ」

「駄目だな、かっちゃん。甘いものは別腹なんだよ」

 キヨミはうれしそうに揚げ饅頭にかぶりついた。そして、上目遣いに私を見ながら言った。

「そんなに食うから太るんだ、って顔してるよ」

「そんなこと思ってないよ」

「いいんだ、私、もう我慢しないんだ」

 仁王門をくぐり、本堂にお参りする。下りてきてキヨミはおみくじを引いた。

「おっ、大吉だ。神様も祝福してくれている」

「観音様だよ」

「そっか」キヨミはぺろりと舌を出す。

 私たちは本堂の横を通り、花屋敷の前を通った。小さな古くさい遊園地がある。

「ちょっと入ってみようよ」とキヨミが言った。「デートっぽくて、いいじゃん」

 平日の遊園地はがらんとしていた。老夫婦が小さな女の子を連れて、子供だましのような遊具に乗せていた。

キヨミは嫌がる私の腕を引っ張って、ジェットコースターに乗せた。

「大丈夫か? これ、ぎしぎしいってるぞ」

「大丈夫だよ。今まで事故があったなんて聞かないよ」

「今までで限界だということもある」

「かっちゃん、怖がりだな」

上るだけ上ると、車は勢いよく曲がりくねったレールを下っていく。キヨミと肩と肩がぶつかる。平気なようなことを言っていたくせに、キヨミは隣で悲鳴を上げる。ジェットコースターは狭い敷地の周囲を一巡りして、あっというまに下り場にたどり着く。

「確かに壊れるかと思ったよ。別の意味でスリル満点だ」キヨミは笑いながら言う。「温かいものでも飲もうよ」

 私たちは浅草の街が見渡せる場所にあるベンチに座り、熱いコーヒーを飲んだ。キヨミは両手で紙コップを抱えながら、静かに話し出した。

「私が高校を出てすぐ結婚したのは、かっちゃんも知ってるよね。伯母さんの紹介でお見合いしたんだ。いつまでも伯母さんの世話になっているわけにもいかなかったし。相手はI市の市役所に勤めていて、その時もう三十になっていた。私が若いのも気に入ったんだろうね。話はとんとん拍子に進んでいった。向こうも母子家庭で、お義母さんは保険の外交員をやってた。気さくな人でしかもやり手、売り上げ成績もダントツだったらしい。こうして、私は結婚した。当然のようにお義母さんのいる旦那の家に入った」

 私は浅草の街を眺めながらキヨミの話を聞いた。まるでどこか遠い国の風習について講義を受けているような気分だった。

「旦那は優しかったよ。『キヨミは頭が悪いから、僕の言うことをよく聞いていればいいんだよ』とよく言っていたな。私もそう思っていたから、その通りにしていた。私は仕事をやめて家事に専念した。お義母さんも仕事をしていたから、日中は私一人で家にいた。掃除して洗濯して買い物行ってご飯作って後片づけして、単調な一日だったけど、平和だった」

 私はキヨミの単調だが平和な日々を想像した。おそらく農民のような勤勉さで、キヨミはその生活に没入したのだろう。仕事は丁寧で誠実だったはずだ。

「それまで一切の家事はお義母さんがやっていたんだけど、私が入ってからは任せてくれた。色々丁寧に教えてくれたわ。少しずつ段階を踏んで、出来るようになると褒めてくれて。多分教師になっても『いい先生』になれた人だと思う。人の気持ちを引き付けるのがうまい人だった。ものも色々買ってくれた。お菓子とか服とか」

 キヨミの義母は魅力的な人だったらしい。でっぷりと太って、化粧が濃く派手好きで話がうまく、彼女の周りには常に人の輪があったという。

「月に一回ぐらいかな、お義母さんが仕事仲間を家に呼んでご馳走するの。その時は、お義母さん自慢のもつ煮を朝から仕込んで、お酒もいいのを用意して。私は裏方なんだけど、お義母さんの人気者ぶりはそれでも一目瞭然だった。話題の中心はいつもお義母さん。お義母さんが太陽で、その周りを金星やら地球やら火星やらがぐるぐる回っている感じ」

 キヨミは冷めたコーヒーを飲み干すと、紙コップをつぶしてゴミ箱に入れて言った。

「続きは後で話すわ。そろそろ東京タワーに行こうよ」

 

私たちは花屋敷を出て、雷門通りに出た。そして吾妻橋のたもとまで歩き、そこから出ている水上バスに乗った。隅田川にかかる橋を、いくつもくぐって水上バスは川面を行く。浜離宮まで約三十分のクルーズだ。

 浜離宮をぶらぶら歩きながら、浜松町の駅に向かう。そこから山手線の線路を跨げば、東京タワーが眼前に聳え立つ。

 私たちが展望台に上った頃には、冬の日は早くも夕暮れを迎えようとしていた。赤く染まった西の空に、富士山がくっきりと台形のシルエットを浮かび上がらせていた。

「お義母さんが仕事仲間をうちに呼んでいる時ね」暮れなずむ東京の街並みを見下ろしながらキヨミが言った。「いつの間にか、その場にいない職場の人の悪口が始まるの。お義母さんはその時、聞き役にまわるんだけど、要所要所でぴしっとその人に対する批判を加える。それで皆は競ってまたその人の悪口を始めるんだ。その時、私、ちょっと思った。この人は敵に回しちゃいけない人なんだって」

 キヨミはさらに続けた。「そうは言っても、お義母さんは私に優しかったし、私を気に入ってくれていると思っていた。どこか私は安心していたんだな。そのうち、私は家事のやり方を自分なりに変えていった。お義母さんのやり方、実はけっこう雑だったんだ。ある時気づいたの。もちろんお義母さんの場合、仕事をしながらやっていたことだから、全部が全部きちんと、というわけにもいかないよね。私だって、初めのうちはお義母さんに教えてもらったことをこなすので精一杯だったから、そんなことには気づかなかった。でも、私だって学習もすれば上達もする。工夫するのも面白いしね。だいたい毎日ずっと家事をやっていたんだから、レベルも上がるわよね。だから、私も頑張ったよ。旦那も私が作る料理をおいしいって言ってくれるようになったし、お義母さんがやっていた頃より、家も随分片付くようになったと思う」

「すごいな、お前」私は思わず言った。

「私、頭は悪いけど、仕事は好きなんだ。やるからには少しでもよくできるようになりたいし」キヨミは私の顔を見て、にっこり笑って言った。

そして、また眼下に広がる東京の街を眺めた。街の灯が灯り始めていた。

「ある時、お義母さんの仕事仲間の食事会があってね」キヨミは話し始めた。「いつも来ていた、いちばん若い人が来ていなかった。おかしいな、と思っていたら、やがて彼女の悪口大会が始まったの。ああ彼女は外されたんだな、って初めて分かった。お義母さんはこんなことを言っていたわ。『弁護士の〝弁〟と書いて何と読むか知ってる? 〝わきまえる〟って読むんだよ。あの子はね、確かに仕事が出来るようになったわよ。でもね、何か鼻につくんだよね。分をわきまえる、って大事なんだよ』って。たまたまその場に私もいたんだよね。その時は聞き流していたけど、まさかね」

 キヨミはそこまで言うと、私の顔を見て言った。「お酒飲みに行こうよ。かっちゃんが学生の頃に行っていたお店に行きたいな」そしてこう付け加えた。「この先はお酒でも飲まなきゃ話せないや」

 

私たちは浜松町の駅から山手線に乗って新宿に出た。西武新宿駅の近くに「庄助」という焼鳥屋があって、私は学生の頃よく行ったものだった。

「ありふれた飲み屋だよ」私は言った。「焼き鳥もすごく旨いわけでもない。どこにでもあるようなものだし。刺身や焼き物も出せば揚げ物も出てくる、こだわりの店なんかじゃ全然ない。燗酒は一升瓶が逆さに突っ込んでいて機械で温める。取柄は大規模チェーン店じゃないってことくらいだ」

「いいんだよ。私、旦那と外に飲みに行くようなこともなかったし、いつかお店で飲んでみたかったんだ」

「それじゃ、せっかくだからカフェバーとかがいいかな」

「やめてよ、緊張して飲めなくなっちゃうよ。いいんだよ、普通の居酒屋で。その方がかっちゃんもリラックスできるでしょ?」

「言ってみただけだ。俺だってカフェバーはごめんだよ」

「じゃあいいじゃん、そこで」

 庄助は雑居ビルの三階にある。新宿は曜日には関係なく飲み屋に客がいる。この日も店内はごった返していたが、うまく端っこのテーブル席に座ることができた。

 まずは瓶ビールと焼き鳥を頼む。歩き回ったので、ビールが旨い。焼き鳥は辛味噌をつけて食べる。

「美味しいよ」キヨミはにっこり笑って言う。しばらくの間、私たちは焼き鳥を齧り、ビールを飲んだ。

「いつの頃かな、すうっと潮が引いた」やがてキヨミが話し出す。「お義母さんは私に話しかけなくなった。お義母さんの仕事仲間の食事会の時、私が入っていくと、会話が止まるんだ。沈黙。そして私が部屋を出ると、笑いがはじける。それを背中で聞くと、何だかみじめな気持ちになるんだよ。

旦那とお義母さんとで御飯を食べている時も、お義母さんは旦那としか話さない。私が口を挟む隙なんてないんだ。何かの時、お義母さんと二人きりになる時があるとする。すると、ずーっと沈黙が続くの。私が話しかけても一言返して終わり。会話になんてならない。私、何かお義母さんを怒らせるようなことしたのかな、と思った。でも、理由が分からない。お義母さんは何も言ってくれない。不安になったよ。不安でどうしようもなかった。

 旦那に言っても『気のせいさ』と言われるだけ。『キヨミは頭が悪いから、僕とママの言うことだけ聞いてりゃいいのさ』としか旦那は言わない。

 仕方がないから、家事を頑張ってやってみた。自分に至らないことがあったとしたら、行動で取り返そうと思ったのね。でも、もう潮は満ちて来なかった。それどころか、お義母さんの指示がおかしくなって来た。つじつまの合わない指示を出したり、大事な情報を教えてくれなかったり。そうして私が失敗する。すると怒りもせず、不機嫌な顔をして、ちゃっちゃっと自分で処理するの。その度に、私って馬鹿だなあ、と思い知らされるんだ」

「無力感に襲われる」

「そう。それに私がいけないんだ、という気持ちになる」

「罪悪感」

「そうだね」

「無力化され、罪悪感を植え付けられる」私は唸る。「すごいな、それ。お前、ひどいいじめられ方をされていたな」

「でもこれって、いじめって言える? ひどい言葉を浴びせられているわけじゃない。暴力を振るわれているわけでもない。『気のせいだ』って言われたら、それでお終いだよ」

 ビールがなくなったので、燗酒を注文した。キヨミはいくぶん顔が赤くなっていたが、それほどに酔っていないようだった。

「結局あの人はさ」キヨミは言う。「一番でいたいんだよね。助けてあげられるものには優しいけど、自分で立って歩けるようになると面白くないんだ。『空気を読め』とか『分をわきまえろ』って言うのは、その場で一番でいるためのものだよ」

「人も場も、支配しなければ気が済まない。そういう人がいるんだね」

「うん。いるんだよ。私も初めて知ったけどね」キヨミはほっけの肉をつつきながら言う。「私はあの家の中で窒息しそうになったよ。せめて子どもができれば、と思ったけど、なかなかできなかった。お義母さんは『人間は子どもができて一人前だ』と言ってたな。それも辛かった。とは言っても、仕事仲間の食事会の時に『不良品の嫁』と言うのがガラス戸越しに聞こえてきてさ、『私のことじゃない』と心に言い聞かせながら、それでも泣いちゃったよ」

 私にはもうキヨミにかける言葉がなかった。どんな言葉をかけたところで空々しいものになってしまうだろう。私にできることはキヨミの話を聞くことだけだ。キヨミの話を、全身で、正面から受け止めることだけだ。

「でも、今思うと、子どもができていたら、もっとひどいことになっていたと思う。お義母さんに、私を責めるネタを増やすようなものだからね。だから、子どもができてもできなくても、あの家にいる限り、同じことなんだ。・・・だから、あの家を出ようと思った。あの家を出なければ、私は死んでしまう。たとえ息をしていたとしても、死んでいることには変わりはないんだ」

 キヨミはぐい吞みに残った酒を一息に飲み干して言った。「ありがとう。かっちゃんに聞いてもらって嬉しかったよ」

「大変だったな。月並みなことしか言えないけど」

「いいんだよ。退職金代わりにまとまったお金を持って来たから、お勘定は私が持つよ」

 そう言って、キヨミは勘定書きを持って席を立った。店の外に出ると、身を切るような寒さだった。

 

「かっちゃん、ラブホテルに行こうよ」キヨミが突然言った。

「えっ?」

「こんな寒い夜に、女の子一人、新宿の街に放り出すつもり? 女の私が言ってるんだから、言うこと聞かなきゃ駄目だよ」

 キヨミは私の腕に自分の腕を絡ませると、敢然と歩き出した。キヨミは私の耳元でこう言った。

「私のおっぱい、圭子ちゃんのより大きいよ」

「ばか」

 いい加減に見当を付けて歌舞伎町を抜ける。歓楽街が尽きた辺りで、目についたラブホテルに私たちは入った。

 

キヨミが使うシャワーの水音を聞きながら、私は缶ビールを飲んだ。これから自分は幼馴染を抱くのだと思うと不思議な気持ちだった。小学生の頃握った、キヨミの手の感触を思い出した。

 キヨミは体にバスタオルを巻いて出てきた。そして、ベッドに腰を掛けて言った。

「かっちゃん、女の方から『しよう』と言うのって、すごく恥ずかしいんだよ。だから、ちゃんとしなくちゃ駄目だよ」

 キヨミは照明を暗くすると、布団の中に入った。私も覚悟を決めて、服を脱いだ。

「変な感じだな。大人になってキヨミとこんなことするなんて、思ってもみなかった」

「私もだよ。・・・私、旦那の他には男の人を知らないんだ。ほんとだよ」

「ああ信じるよ」

 私も布団の中に入った。そして、長い長いキスをした。唇を離すと、キヨミの身体中から、女の匂いが立ち上るのを感じた。キヨミは布団を剥ぐと、私を仰向けに寝かせ、身体の隅々にキスをした。

「かっちゃんも私の身体を触って。決して急がないで。私、この時を大事にしたいの」

 私はキヨミの胸に触れた。先はもう固くなっている。繁みに手を伸ばすと、奥は溢れ出ていた。それでも私は急がなかった。キヨミの反応を見ながら、丁寧に愛撫を続けた。キヨミの身体は柔らかかった。

「・・・いいよ、もう。かっちゃん、入ってきて」息をはずませながらキヨミが言った。

 そうして、私たちはひとつになった。キヨミは両腕を私の背中に回して強く抱きしめた。

「かっちゃん、今だけ・・・、今だけ私をしっかり捉まえてて」

私たちは初めから終わりまで同じ姿勢で交わった。上り詰めたのも同時だった。どちらかがどちらかを置き去りにするようなことはなかった、と思う。

「ありがとう」キヨミは天井を見ながら言った。「私の旦那は、私をモノみたいに扱うんだ。旦那とするときは、後でいつも寂しい気持ちになった。かっちゃんは大切にしてくれたよ。すごく気持ちよかった」

「それはよかった。俺もうれしい」

「ありがとう、かっちゃん。今日一日のおかげで、これからの人生、頑張れそうだよ」

「大げさだなあ」

「今日はこのまま眠ろう」

 キヨミはそう言って、裸のまま私の隣で丸くなった。私もそのまま目を閉じた。いつの間にか深い眠りがやって来た。

 

 翌朝、下腹の方がもぞもぞする感覚で目を覚ました。布団を剥いでみると、キヨミが私を口に含んでいた。

「何してるんだ?」

 キヨミはきょとんとして言う。

「うちの旦那を起こすのに、毎朝、こうするのが決まりだったの。男の人って、皆、そうなのかな、と思って」

「そうじゃない人の方が圧倒的に多いと思うよ」私はため息をついて言った。「いいか、あの家での決まりごとは、もう忘れた方がいい。あの家はまともじゃない。お前はそれに支配されることはないんだ」

「分かったよ。・・・でも、出るまでして欲しい?」

「いいよ。そのうちに収まる」

「私、男の人って、出るまで収まらないのかと思ってた」

「ばかだな、お前」

 

私たちはホテルを出て、新宿駅に向かった。駅はちょうど通勤時間帯で、ひどく込み合っていた。

「かっちゃん、旅行はどこへ行くの?」

「決めていない。とりあえず新宿から出る特急に乗って、終点まで行ってみるよ」

「〝八時ちょうどのあずさ二号〟はもう出ちゃったけどね」

「お前も古いな」

 私たちはひとしきり笑い合った。人々は忙しそうに速足で歩いていた。私たちだけが立ち止まっている。

「最後にアドバイスさせてね」キヨミは私の目をまっすぐに見て言った。「かっちゃんが結婚したら、絶対お嫁さんの味方になってあげるんだよ。お嫁さんはね、自分の家を出て、一人でかっちゃんの家にやって来るんだよ。名前の一部までも剥ぎ取られてね。だから、最後までお嫁さんを守ってあげなきゃ駄目だよ」

「分かった」

「大丈夫。かっちゃんにならできるよ」

 私はためらいながら言った。

「お前はこれでいいのか? 俺は・・・」

「いいんだよ、かっちゃん。私はこれから自分の好きなようにやっていくんだ。かっちゃんも私に縛られることはないよ。じゃあね。これでお別れだ。元気でね」

 そう言って、キヨミは後も振り返らず雑踏の中に紛れて行った。

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