海を見に行く
「海を見に行かないか」電話の向こうでさかなが言った。「海水浴というわけじゃない。サマーベッドに寝転がって海を見ながらビールを飲む。テントと寝袋も持って行くからそのまま泊まって翌朝帰って来ればいい」
それはいかにも魅力的なプランだった。ちょうど明日から夏季休暇を取っていたし、断る理由はない。
「そうか、じゃあ明日迎えに行くよ」
そう言ってさかなは電話を切った。
僕は水割りを作ってもう一杯飲み、布団の中に入った。
深い眠りの奥で電話のベルが聞こえる。深海から水面へ浮き上がるように意識が覚醒する。時計を見ると午前二時。いつもの時間だ。電話のベルは鳴り続く。受話器を取らない限りベルは鳴り続ける。ベルはそう言っている。「おれの意志は固い」
すぐには体が動かない。ようやく手を伸ばして受話器を取る。三秒の沈黙。そして電話は切れる。ツーツーという音だけが耳に届く。僕は仕方なく受話器を置く。
深い闇の中に僕は置き去りにされる。冷たい憎悪が流れ込む。世界に憎悪が存在しているのは僕も分かる。でもそれが向かって来るのが、なぜ僕の方でなければならないんだ。
翌日、昼近くなって、さかなが初代ホンダ・プレリュードに乗ってやって来た。ライトグリーンのボディーはピカピカに磨き上げられていた。狭い後部座席はキャンプ用品でいっぱいだ。僕も寝袋と組み立て式の簡易コンロを持って乗り込む。
海までは一時間ほどのドライブである。裏道を通っていくので、ほとんど混むことはない。
「けっこう海水浴客がいると思うけど、そんな所でキャンプができるのか?」
「とっておきの場所があるんだ。砂浜に近くまで車で行けて、しかもまず人は来ない。ゴールデンウィークに一人でキャンプをしたけど、人の姿は見なかった」
途中、国道に出て、観光客相手の土産物屋に寄って、ハマグリを買った。
「焼くのか?」と僕が訊くと、
「いや、水に入れて火にかけて茹でる。焼くより手間がいらない 。それにいい出汁がでるんだ」とさかなが答えた。
車は国道をそれて細い道に入る。小さな集落を抜けると小さな砂浜に出た。確かに人気はない。
青い空。白い雲。寄せては返す波。
エアポケットのように、ぽっかりと何事もなくその場所はあった。
「奇跡のような場所だな」
「ああまったくだ」
僕たちは車を降りると、まずテントを設営した。そしてサマーベッドをしつらえた。簡易コンロを組み立て、その上に鍋を載せた。さかながペットボトルの水を注ぎこみ、ハマグリをぶち込む。拾って来た流木に火を点け、あとは茹で上がるのを待つだけだ。
僕たちはクーラーボックスから缶ビールを取り出す。クーラーボックスにはクアーズの半ダースパックが二つ、きんと冷やしてある。まったく行き届いている。
クアーズのプルトップを引いて、さかなと乾杯する。
目の前には海。きんと冷えたクアーズ。文句のつけようがない。
僕たちはサマーベッドに身を横たえる。僕はサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を読み始める。「コネティカットのひょこひょこおじさん」を読んでいる途中でハマグリが茹で上がる。
さかながシェラカップにハマグリを取ってくれる。醤油をちょっとだけたらし、すすり込む。
「・・・旨い」僕がうなると、さかなは誇らしげに笑う。
「だろ?」
僕たちは夢中でハマグリを平らげた。
「これからが本番だ」
さかなはそう言って残ったスープに塩を一つまみ入れた。
「飲んでみろ」
シェラカップに入ったスープを口に含む。ハマグリの旨味が口いっぱいに広がる。
「どうだ?」
「海そのものを味わっているみたいだ」
僕たちはハマグリのスープでビールを飲んだ。僕は、僕にはこんな時間が必要だったんだ、と静かに思った。
今年の春、僕は大学を卒業し、県の出先機関に臨時採用の職を得た。一年間の契約で、仕事はそんなにきつくない。
ただ四十代半ばの直属の上司がきつかった。彼は戦後民主主義を徹底的に憎み、日本国憲法が制定される以前の「美しい日本」を希求していた。本来悪い人ではないのだろう。大らかで面倒見がいい。僕も何度か昼飯をおごってもらった。しかし何度も繰り返される隣国への悪口は、僕をいたたまれない思いにさせた。
僕は高潔な主義主張は持ち合わせてはいないけど、それでもかつて多大な迷惑をかけた隣国に対し、悪しざまに罵る姿を見ながら平気でいることはできなかった。
ある時飲み会で隣に座った同い年の男と喋っていて戦争の話になり、「何だかんだ言ってうちの国はアジアの人たちには迷惑をかけたんだと思う」と言った。
すると向かいの席にいたあの上司が僕を怒鳴りつけた。
「お前は皇軍が残虐行為をしたと思っているのか。東南アジア諸国は我が国のおかげで独立できたんだ。親日国も多い。そんな考えは戦勝国や中韓の宣伝に乗っているだけだ。お前も日教組の教員に教えてもらったことをいつまでも信じているんじゃない」
そしてこう嘆いて見せた。「まったく今の若い者はなっていない。軍隊がなくなったからだ。自衛隊にひと月ぐらい入れて、性根を叩きなおしてもらいたいな」
僕は何も言わなかった。大学を出たばかりの臨時採用職員が、四十代の中間管理職に何が言えるだろう。
僕がそんなことをぽつりぽつりと話すとさかなは言った。
「クソだな」そしてビールをひと口飲むとさらに続けた。「その上司も、お前もだ。お前も自分の考えを堂々と述べたらいいだろう」
「言えないよ。そんなことをしたら喧嘩になる。周りも迷惑だ。おれもクビになるかもしれない」
「おれなら言うな。そんなんじゃクビにできないよ。もしそうなるようなら組合を使って団体交渉してやる」
さかなは高校を出てすぐ労働省管轄の役所に入った。今は労働組合員としても活躍している。
「何にせよ、こんな時にそんなクソ野郎の話をすることもないだろう。見てみろ、海はいいぞ」
僕も海を見た。なるほど海はいい。
さかなはウォークマンにカセットテープを入れ、気持ちよさそうに角松敏生を聴き始めた。
辺りは夜になっていた。
日が沈む頃、さかなはキャベツを手でちぎってコンビーフと炒め、ウィンナーソーセージをボイルした。僕たちはそれでビールを飲み、夕食とした。
暗くなると流木を拾い集めて焚火を作り、アーリータイムズの封を切った。
火を見ながら飲むバーボンは旨い。
「それにしてもお前の職場のクソ野郎にはむかつくな」とさかなが言う。
「こんな時にそんな話をするな、と言ったのはお前だろう」
「いいんだ、今度はおれがその話をしたいんだ」そう言ってさかなは焚火をかき混ぜた。火花が舞い炎が大きくなる。
「お前がそんなことを言われるのは、お前になら言えるからだ。おれは仕事柄、そんなやつをたくさん見ている。部下をさんざんにいじめた末、精神疾患にしてしまった男がいた。この前、おれが聞き取りをしたんだが、こんな若造にもたいそう腰が低くて口のきき方も丁寧だった。『多少厳しくしたかもしれないが、彼の成長を思ってのことだった』とそいつは言う。だけど、それは嘘だった。いじめられた方がメモを取っていたんだ。読んでみると、これがまあひどいものだった。周囲にも聞き取りをしたんだが、何人かその男の被害者がいて大体皆同じようなことをやられていた。その男はやれるやつにはやるんだ。そうせずにはいられない。ターゲットの存在こそがやつの自尊心を満たす。日本社会の醜い所を煮だしたような男だ」
さかなの横顔を焚火が照らす。檄した様子は見えない。静かな表情だ。
「それにな」とさかなは僕の方を向いた。「お前は、ある種の人間のコンプレックスを刺激する傾向がある。まあ無意識なんだろうが、気をつけた方がいい」
「何だ、それ」
「気にするな。人間は誰でも何らかの形で人を不快にさせている。理不尽な憎悪を呼び込むこともあるだろう。それはおれも同じだ」
「それじゃ救いがないな」
「いや、救いはある。光があれば影がある、プラスがあればマイナスがある、すべて表裏一体だ。世界はそういうふうにできている」
そう言ってさかなはウィンクをした。はっきり言って似合わないぞ、僕は腹の中で言った。
その夜は波の音を聞きながら眠った。無言電話の心配はここにはない。
翌朝はインスタントラーメンを食べ、早々に撤収した。
「ありがとう。いい休みになったよ」僕はさかなに礼を言った。
さかなは「また週末に飲もう」と言ってプレリュードに乗って帰って行った。
その夜、僕は冷奴と枝豆で少しばかりの酒を飲み、布団に入った。
午前二時、やはり電話が鳴った。手を伸ばし受話器を耳に当てる。沈黙。いつもと同じだ。
「おれはお前を知っている」と僕は言った。「お前はおれが呼び込んだ憎悪だ。だからおれはお前を引き受ける。お前はおれだ」
三秒の沈黙。唐突に電話は切られる。ツーツーという音が耳に響く。
深い闇と冷ややかな憎悪が辺りを包む。僕はそれらと共にここにいる。
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