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巨大な鳥

    巨大な鳥が、空を横切って飛ぶ その影が地上を走る   1945 年 3 月 10 日午前 0 時、サイパン、グアム、テニアンの各飛行場から飛び立った B29 、合計 325 機は、東京都深川区、本所区、浅草区、日本橋区一帯に、 38 万発のナパーム弾を投下した。 木造住宅が密集する下町に落とされた火は、折からの強風にあおられて瞬く間に燃え広がった。 上空には火災旋風が発生し、乱気流となって B29 に襲いかかった。 米兵たちは必死で機体を制御し、機内は人間が焦げる臭いで充満したという。 眼下に広がる街は、さながら地獄の業火のように見えた。     巨大な鳥が、空を横切って飛ぶ その影が地上を走る   就寝中に襲われた人たちは燃えさかる炎に焼かれて死んだ。 逃げ惑う人たちは川になだれ込んだ。その上から焼夷弾の破片が降り注ぐ。それらはぶすりぶすりと彼らを突き刺した。 東京三十五区のおよそ三分の一が焼き尽くされ、死者は 10 万人に及んだ。   巨大な鳥が、空を横切って飛ぶ その影が地上を走る   米空軍は、事前に江戸の大火や関東大震災を検証し、木造住宅が密集する日本の大都市には焼夷弾による空襲が最も効果的であると結論付けていた。 それは、地形や気象条件等、綿密に計算された、極めてシステマティックな殺戮だった。 関東大震災での死者及び行方不明者の総数が 10 万 5000 人であることを考えると、東京だけで同程度の人間を殺すことができたということは、米空軍にとって大きな成果だったにちがいない。   巨大な鳥が、空を横切って飛ぶ その影が地上を走る   この作戦の指揮を執った、カーチス・ルメイ准将は、「多くの市民が死ぬであろうことよりも、戦争を早く終わらせることが重要だった」と述べている。 彼の眼には、地獄の業火に焼かれて死ぬアジア人が、自分と同じ人間として映らなかったのかもしれない。 制空権を奪われ、いずれこのようなことが起きると、十分に予想されたにも関わらず、戦争を遂行していた軍の中枢部の人間も、市民を同じ人間と見ていなかったのかもしれない。 その後、日本全土で空襲が繰り...

平和の少女像

  その少女は軽く握った手を膝にのせ、椅子に座っている。 左の肩には小鳥がとまっている。 その少女は朝鮮半島の民族衣装を着ている。 椅子に座った少女の足は地面に届かず宙を浮いている。   少女は第二次世界大戦中の日本軍の従軍慰安婦であるという。 宙を浮いた足は、少女に安住の地がないことを象徴しているという。   この像の名前は「平和の少女像」という。 戦争による性暴力の被害者を思う気持ちを込めて、この像は制作された。 この像の隣には空席の椅子がある。 誰でもそこに座ることができ、少女に寄り添うことができる。   少女の切れ長の目はただ前方を見ている。 そして、その表情から感情は読み取れない。   この少女を前にして、一部の日本人は平静さを失う。 足蹴にする。少女の頭に紙袋をかぶせる。 この少女を「日本人の心を踏みにじるもの」とののしる。 ある種の日本人男性は、そのまなざしに感応し、うろたえ、みっともなく暴れるのだ。   少女は表情を変えない。 みっともない男たちを前にして、ただそこにいる。

ガール

Ⅰ   とびきり素敵な女の子の話をしようか。 きっと君のクラスにもいただろう。負けず嫌いで、頑張りやで、クラス委員の選挙の時には、必ず一票入れてしまいたくなるような女の子だ。 彼女と出会った頃、僕は大学に籍を置いていたものの、ほとんど学校にも行かず、工業都市の路地裏の、古臭い四畳半のアパートで、未来の印税生活者を夢見ていた。 友人達は、もう卒業して各々の職に就いていた。僕だけが、誰も訪れる者のいないアパートで、夜毎飲んだくれていた。両親や世間に対する負い目もなくはなかったが、僕はその頃、日本の伝統的私小説にいかれていたので、むしろそんなものは僕の生活を荒れる方向へと駆り立てるだけだった。 僕は誰も信じなかったし、いつ死んでもいいと思っていた。今考えると馬鹿みたいな話だが、そう思わないと一人前の芸術家にはなれないと思っていたのだ。(だからといって、僕はあの頃が不幸だったとは言わない。あの頃、僕はまだ小心な教務主任の下で働いていなかったし、僕の住んでいた工業都市は、プロ野球のチームのフランチャイズだったのだから)   さて、その女の子のことだ。 ここでは、Kという名前を与えておこう。どのみち名前は記号に過ぎない。ならばシンプルな方がいい。 さて、Kのことだ。 彼女のことを一言で言うなら(もちろん無理を承知の話だが)、「晩秋のチチカカ湖」だ。 それだけか、と言われると僕も困る。もちろん、僕にとってKは美しかったし、魅力的だった。当たり前だ。僕は彼女を愛したのだ。しかし、彼女の魅力をいちいち並べ立てるより、「晩秋のチチカカ湖」を想像して欲しい。Kの美しさは、まさにああなのだ。   とにかく、Kは僕の前に現れた。そして僕は一遍で彼女にいかれてしまったのだ。   Kが僕のアパートに、初めて来た時のことを話そう。 彼女は、たっぷり時間をかけて部屋の掃除をした。前にも書いた通り、当時僕は日本の伝統的私小説家に憧れていたので、部屋は荒れ放題だった。 Kの手際は鮮やかだったし、指示は的確だった。僕はみるみる変貌する自分の部屋を信じられない気持ちで見つめるだけだった。 部屋の掃除が終わると、Kは僕を買い物に連れ出した。僕は歩いて 10 分の所にある商店街に案内した。彼女はそこ...

富嶽点景

   「野島が死んだ」と電話の向こうで矢口が言った。 「何だ?」 「野島が死んだんだ。昨日、年賀状の喪中欠礼葉書が来た。今年の四月に亡くなったらしい。詳しいことはまるで分らない」  何を言っていいのか分からない。少しの間、沈黙が続いた。やがて、矢口が切り出す。 「弔問に行かないか?」 「野島の家へか?」 「もちろん。竹山にも連絡する。三人で行こう」 「おれ、卒業以来、野島とは何の連絡も取り合っていないぞ。お前は毎年年賀状をやり取りしているからいいけど、おれみたいなのが一緒に行っていいのか?」 「当たり前だ。お前も野島の友だちだろう?」    私たちは大学の同級生だ。四人とも同じクラスだった。私と矢口と野島は近代文学を、竹山は中古の物語文学を専攻した。卒業後、私と竹山は高校の教員に、矢口は中学校の教員になった。文学部国文学科の学生にとって、専門性を生かすには教員になるしかない。私たちの世代は、ちょうど第二次ベビーブームで生まれた子どもたちが成長して生徒・児童数が急増し、教員の採用が増えた時に就職時期がぶつかった。そうでもなければ、私が教員になどなれるはずがない。  野島は、学生時代、教職課程を取らずに司書課程を選んだ。教員は向かないと自覚していたのだろう。あわよくば図書館職員に、という目算があったのかもしれないが、卒業後は国家公務員試験に合格し、職業安定所に配属された。   「分かった。いつにする?」 「平日はおれも無理だ。どこかの日曜日でどうだ?」 「ちょっと待ってくれ」  私は傍らの妻に小声で訊いた。 「大学の時の友だちが亡くなった。どこかの日曜日に弔問に行って来てもいいかな?」 「いいよ」と妻は即座に答える。 「ありがとう」と言って、私は受話器に向かう。「大丈夫だ。行くよ」 「そうか、それはよかった。詳しいことは後で打ち合わせよう。また、連絡するよ」と言って、矢口は電話を切った。  私は受話器を置くと、グラスを取り出し、冷蔵庫の氷を入れてウィスキーを注いだ。 「いつ亡くなったの?」テーブルの向こうで妻が訊く。 「今年の四月だそうだ。矢口の所に年賀状の欠礼葉書が届いたんだ」 「どこまで行くの?」 「神奈川県の平塚、日帰りで行ける」 ...